続・大人の約束
2
翌日の午後、永江は混雑する店を少しだけ抜けさせてもらい、保育園の延長保育が終わるぎりぎりの時間に真尋と真純を迎えに行った。
マンションの部屋にふたりだけにしておくのは不安だったので、食事をさせてからそのまま仕事場まで連れてきて、閉店時間までは店の事務所で待っていてもらうことにする。
「ごめんな。あと二時間くらいで仕事が終わるから。眠かったら、そこのソファで寝ててもいいぞ」
むしろそうしていてくれると一番安心できる。
内心で願いながら言い聞かせると、とりあえずふたりは聞き分けよく「うん」と頷いてくれた。しかしもうしばらくすれば、きっと飽きてその辺のものに興味を示しだすことだろう。
事務所に保管してある商品の在庫にはけっして手を触れてはいけないと何度も言い聞かせはしたが、ダメといわれたことほどやりたくなる年頃だ。考え出すと心配で胃がキリキリと痛くなってくる。
後ろ髪を引かれながらも急いで店に顔を出すと、「あ、店長!」とすぐさま店員の田丸が気づいて駆け寄ってきた。
「すみません、こちらの商品のラインナップについて聞きたいと、あちらのお客さまが」
「はい、コマンドソルジャーのシリーズですね」
頭の中にこのブランドの時計のデータを呼び出しながら、田丸に示されたお客さまのほうに向かう。
そう広くない店内は人で溢れかえっている。商品を眺めているお客さまの邪魔にならないよう進むには、細心の注意が必要だった。
時計好きの大学生の息子へのプレゼントに、どの商品を選ぼうか迷っているというご婦人にアドバイスをして、ご購入いただいた商品を包装し、お見送りする。「ありがとうございました」と下げた頭もまだ上げきらないうちに、もう次のお客さまが声をかけてきた。
最近の御田の忙しさは並外れているが、永江が経営しているこのアサヒヤ時計店も、ここ数日は目の回りそうな忙しさだ。
クリスマスのプレゼント用に時計を購入しにくる客が引きも切らず、閉店時間を通常より一時間延長して、毎日従業員総出で接客に当たっている。
入り口に出してある「Xmas SALE」と書かれた立て看板に惹かれて来店して下さるお客さまも多いことだろう。そしてそれと同じくらい、よく訪れてくださるお客さまは……、
新たに店内に入ってきた数人の女性客が、中を覗くなり「きゃーっ」と、語尾にハートマークのついていそうな歓声をあげた。そろって丈の短い派手なドレスの上にファー付きの可愛いコートをまとい、髪を丁寧に巻いた華やかな格好をしている。
彼女たちは入り口近くにいた店員に駆け寄っていくと、「やだ東吾(とうご)、カワイー!」と騒ぎ始めた。かわいいと言われてしまったその店員、阿達(あだち)東吾は澄ました顔で「ありがとうございます」と一礼し、和やかに会話を交わしながら、彼女たちの欲しがっている商品を的確に聞き出して、紹介していく。
阿達をいま取り巻いているのは、上得意の客へのプレゼントを求めてやってきた、ホステスを始めとする水商売の女性たちだった。前職がホストだった阿達は相変わらず彼女たちからの人気が高く、同じお客さまが機会を見つけては何度もこの店に足を運んでくれている。
加えて阿達は仕事の飲み込みも早く、店員として働き出してからまださほどの時が経っていないことを忘れるくらいに、この店に貢献してくれていた。
本当にいい店員が来てくれたものだと改めて思っていると、そのとき、またカラランとドアベルが鳴った。クリスマスリースが飾られたガラス扉を外側から開けて、新たな客が店内に入ってくる。今度は男性客だ。だが彼は奥に進むことなく、呆気にとられたようにその場で動きを止めてしまった。
彼の視線の先にいた阿達が、目ざとくその存在に気づき、接客を続けながらも周囲に気づかれないように軽く片目をつむって合図を送る。そして少し手が空くと、すかさず彼のもとに小走りで駆け寄った。
「車掌さん!」
目を輝かせながら阿達が駆け寄っていったのは、鉄道会社で車掌として働く佐久間(さくま)だった。いや、輝いていたのは目だけでなく、阿達の顔全体だったかもしれないが、その端正なマスクは今日は半分以上が覆い隠されてしまっていてよく分からない。邪魔にならないよう店の隅に立っていた佐久間の前で、阿達はモデルのようにくるりと一回転してみせた。
「車掌さん、どうこれ?」
「どうって……、サンタだな」
全身を赤い色で覆われた長身を見上げ、他に何とも答えようのない様子で佐久間が呟く。そう、今日の阿達は、近くのディスカウントストアで買ってきたサンタの衣装を身につけていた。
別に永江が強要したわけではない。一度やってみたいと阿達自身が言い出したのだ。しかも永江が出した費用で自ら衣装を買ってきて、今日は朝からずっとこの姿で接客を続けている。鼻の下から口、顎までを覆い隠す、綿でできた白いヒゲまでつけている凝りようだ。
普段の非の打ちどころないスーツ姿とは180度異なる雰囲気で、阿達目当てで来店した女性客たちには先ほどから大受けだった。
「似合ってるかな?」
「まあ……」
曖昧に頷いた佐久間に、阿達はこればかりはひげで隠されていてもはっきりと分かる満面の笑みを見せる。
「ありがと。車掌さんも今日のその格好、すごくよく似合っているよ。かっこいい」
いつもはラフな服装が多い佐久間だが、今日は珍しくきちんとしたジャケットとパンツを身につけていた。淡いグレーのスーツとスタンドカラーのシャツが、彼のバランスよく整った細い肢体を引き立たせている。
褒められた佐久間は照れたようにカッと頬を染め、もごもごと口の中で礼なのか文句なのかよくわからない言葉を呟いた。そして店の奥に向けて身をひるがえす。
「――仕事が終わるまで、まだかかるんだろ。事務所で待たせてもらうから」
「わかった。ごめんね、またあとで」
この店で阿達を待つことに慣れている佐久間は、迷うことなくさっさと事務所に向かって歩き出した。
それを見て、永江は応対していた客に詫びてから、急いで佐久間のあとを追いかけた。後ろから肩を叩くと、びっくりしたように佐久間が振り返る。
「すみません、佐久間さん。奥の事務所なんですが……」
「え? あ、すみません永江さん! 俺、勝手に待たせてもらうなんて言っちゃって」
あわあわと謝ろうとする彼を押し止め、
「いえ、事務所を使っていただくのは一向に構わないんです。ただ実は今、事務所に私の子どもたちが来ておりまして」
「え、永江さんのお子さんが、ですか?」
永江がなんの話をしようとしているのか、まるでわからずにいるのだろう。きょとんと目を見開いている佐久間に、永江は思い切って図々しい頼みごとをした。
「はい。それで、大変ぶしつけで恐縮なのですが、もしお願いできるようでしたら、閉店時間まで子どもたちを見ていていただけないでしょうか」
「俺がですか?」
自分を指差し確認してくる佐久間に、大きく一度頷く。
佐久間は昔からのこの店の顧客でもあるが、最近では阿達の影響で親しく言葉を交わす機会が増え、普段の人となりもよく知るようになった。誠実でまっすぐな気性を持つ彼になら、永江の可愛い子どもたちを安心して託すことができる。
といっても佐久間にとっては迷惑以外の何物でもない頼みごとだろうが、困り果てている永江の心情を汲み取ってくれたのか、すぐに「俺でよければ」と力強く頷いてくれた。
救われた思いで丁重に礼を述べると、永江は佐久間を事務所に案内して、案の定待ちくたびれて周囲のものに興味を示し始めていた子どもたちに彼のことを紹介した。そのまますぐに店に取って返し、永江は今度こそ胸のつかえが取れた気分で接客に集中した。
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