――――そんな風にして、自分から「絶交だ」などと言い渡した男に永江が連絡を取ってしまったのは、それからわずか三ヶ月ほどが過ぎたときのことだ。
理由は育児ノイローゼ。その言葉に尽きる。
それまでも自分にできる範囲内で家事や育児に協力してはいた永江だが、妻が去ったあと、仕事も抱えた身でまだ幼い子どもふたりの面倒を見るのは至難の業だった。
とにかくやるべきことが多く、目が回るほど忙しい。仕方なく仕事に出ている間はベビーシッターを頼むことにしたが、そのための金も馬鹿にならないし、赤の他人を100パーセント信用することが難しく、働いている間は子どもたちのことが心配で心配でストレスがたまる。
ようやく部屋に帰って来られたら、今度はたまっている洗濯や掃除をこなし、慣れない料理をつくらなければならない。可愛くて仕方ないはずの子どもたちも、なにかあるとすぐに泣き叫び、永江の手をわずらわせ……。
永江はそれまで自分のことをわりと忍耐強く、気が長いほうだと思っていた。しかし、子育てというのは生半可な覚悟でできるものではないのだと思い知った。
妻が出て行ってしまったのは、もしかしたら御田のことだけが原因ではなく、育児ノイローゼも理由のひとつにあったのかもしれないと今頃になって思いつく。
だからといって、彼女に同情する気持ちの余裕などあるはずもなく、働きに働いて気力も体力も尽き果てたころ。
永江は封印したつもりでいた番号に、衝動的に電話をかけてしまっていた。
二回めのコールで相手は出た。まさか永江から連絡が来るとは思わなかったのだろう。珍しくひどく焦った声で、御田が「どうした?」と聞いてきた。
背後で今度はなにが不満なのか、真尋と真純が泣いている。御田にもその声が聞こえてしまっていることだろう。いらいらする。どうしようもなく腹立たしくて、永江は奥歯を一度ぐっとかみ締めた。
「どうもこうも……、最悪だ。おまえのせいで、うちはもうめちゃくちゃだ。なんでこんなことになったんだ」
御田のせいにすることだけは、何があってもしないつもりだったのに。疲れて弱ってしまった心は、そんな決意を簡単に覆してしまう。気づけば、子どもたちの泣き声につられるようにして、永江も泣き出していた。
「おまえにだって少しは責任があるんだ。なんとかしてくれ。助けてくれよ……」
恨み言を言わずにいられない気分で、そんなことを口走っていた。涙は止まらない。どころかますます勢いよくあふれ出てくる。
だが、久しぶりの涙は心によどんだものを押し流していくようで、ひどく爽快だった。御田が困ろうが知ったことじゃない。このまま思う存分泣いて、電話を切ってやろうと思ったとき。
「責任は取る」と、短い言葉が聞こえてきた。そして永江が切るまえに向こうから電話を切られてしまう。
ツー、ツーと耳元で繰り返される間延びした音を聞きながら、永江は首をかしげた。責任を取るって、いったいどうやってだ。あいつはいったいなにをするつもりなんだろう。
そしてその答えは、待つほどもなくすぐにわかった。なんとその週のうちに、電光石火の早業で御田は永江の住むマンションに引っ越してきてしまったのだ。
たまたま空いていたひとつ上の階の部屋に居を定めると、ちょくちょく永江の部屋に通ってきては、不器用に家事やら育児やらを手伝おうとする。永江が怒ろうが、しめだそうとしようが、お構いなしだ。押し売りよりもよほど強引で、強情で、永江が部屋に上げるまでは梃子(てこ)でも扉の前から動こうとしない。
いくら困っていても、さすがに素直に世話になる気になれず、最初は断固として御田の助力を拒んでいた永江だったが、それでもどうしても手が回らない折に、都合よく傍にいてくれる御田に手助けしてもらうことが重なると、次第に御田の存在なしには生活が立ち行かなくなってしまった。
やがて、子どもたちが幼稚園に通うようになってからは、彼らのお迎え役と夕方までの世話を御田が、夜は永江が子どもの面倒を見るように、役割分担まで確立した。
なにしろあんな告白をされたあとだ。こんな風に親切にふるまって、そのうち御田が見返りになにを求めてくるかと永江は警戒していたのだが、案に相違して、御田が永江になにかを求めてくることは一度もなかった。
この部屋に通ってくるようになってから、いや、永江は気づかずにいたが、それ以前からだったのかもしれない。御田はただ不器用に一生懸命に、永江と、永江が大事にするものを、自分も大事にしようとするだけだった。
どこにも可愛げのない顔で、呆れるほどに自己犠牲的なそんな愛し方ができる男を、自分もまた大事にしたいと永江が思い始めたのは、いったいいつごろからだっただろうか。もうよく覚えてはいないが……。
◇ ◇ ◇
――――金色の朝日が、キッチンの窓から帯になって差し込んでいる。
メガネに反射する光のまぶしさに目を細め、あくびをかみ殺しながら、永江は溶いた卵をフライパンに流し込んだ。菜ばしでくるくると巻いて、最後に軽く焼き目をつける。
まな板の上にあげて包丁で切り分けながら、今朝は我ながらうまく焼けた、これなら御田にも負けないぞと思っていると、朝の静かな空気の中に、玄関の鍵が開く小さな音が響いた。そしてちょうど今考えていた男がダイニングに姿を現す。
デニムのパンツに濃紺のニットという気取りのない服装で、いつもはきっちりとセットしている髪もたった今洗ったかのように無造作に額に乱れかかり、いつもの近寄りがたい雰囲気が大分やわらかくなっている。
「おはよう、今帰ってきたところか?」
永江が聞くと、無言で頷いた。
毎日朝食をつくるのは永江の担当だが、どうせ早朝は御田も仕事を終えて帰ってくる時間帯なので、そのあと寝るだけなら夜食がわりに子どもたちと一緒にご飯を食べていけばいいと、永江はいつも御田を誘っていた。
誘われた御田は、仕事が終わって帰ってくると、まず自分の部屋に戻って着替えてから、渡してある合鍵でこの部屋に入ってくる。
一晩中働いて疲れているのだろうから、いちいち自分の部屋になど戻らず、スーツのまま直接この部屋に来ればいいものを、御田がそうしたことはこれまで一度もない。
単に早く汗を流してすっきりしたいということもあるだろう。だが多分、理由はそれだけではないのだと思う。
御田はおそらく真尋と真純に、永江の愛する子どもたちに、夜の世界で働いている自分の姿を見せたくないのだ。
オーナーである御田はもう接客することはないはずだし、たとえしたとしても、そういう自分を御田が恥じているというわけではない。
だが無垢な子どもたちに、酒やタバコや女の匂いや、欲望に満ちた夜の世界の気配をまとったまま触れるのを恐れるような純真さが、あの男にはある。
いつもふてぶてしい顔つきで周囲の人間を無闇に恐れさせているくせに、好かれたいと思っている相手に対しては、御田はたまにとんでもなく臆病になるのだ。――それはこの、自分に対するときも含めて。
永江が小さく笑うと、御田は皿を出すのを手伝いながら眉根を寄せ、「なんだ?」と聞いてきた。なんでもないと首を横に振って、そろそろ朝食ができるから子どもたちを起こしてきてほしいと頼む。
素直に子どもたちの寝室に向かっていくやたらと大きくて広い背中を、永江は抱きつきたくなるほど可愛いと思った。
四人で囲むにぎやかな朝食を終え、時計を見上げると、そろそろ出掛ける時間になっていた。マンションのすぐ近くにある幼稚園に子どもを預け、それから出勤するのが永江の日課となっている。
朝食の後片付けをしてから自分の部屋に戻るという御田は三人を玄関まで見送り、「なにかあったら連絡しろ」と毎日の決まり文句を永江に言ってきた。何気なく頷きかけると、思わぬところから厳しい駄目だしが入る。
「パパはでんわしてきちゃダメ!」
めいっぱい背伸びして、御田の腕に懐かしのダッコちゃんのようにしがみついた真純が、まるで敵に向かって言うように叫んだ。
「ま、真純……? なんでパパが電話しちゃダメなんだ」
愕然として問うと、真純はピンクの唇を尖らせる。
「だってパパがでんわしてきたら、またみっちゃが出てっちゃうでしょ。それはダメなの。だからパパはでんわしてきちゃダメ!」
そこまで言われて思いつく。少し前に、やむをえない事情があって、御田を彼の経営する歌舞伎町の店まで呼び出したことがあった。
ちょうど夕食を作り終えたばかりだったという御田は、永江の残した留守電のメッセージを聞くと、子どもたちに絶対に外には出ないように言い聞かせ、念のため隣の家にも子どもたちのことを頼んでからすぐに駆けつけ、店内で起こっていたトラブルを鎮めてくれた。
あのときは本当に助かったが、結果的に御田との団らんの時間を取り上げられてしまった真純は、いまだご立腹であるらしい。ことあるごとに思い出しては、こうして永江に小言を言ってくる。
「……真純、そんなに御田が好きか? パパよりも?」
嫉妬丸出しでおとなげなく聞くと、真純はうんと頷き、無邪気な笑みを浮かべて力いっぱい叫んだ。
「だいすき! パパもすきだけど、みっちゃはだいすき」
痛恨の一撃を受けて、永江はぐらりとよろめいた。
「好き」と「大好き」の差は非常に大きい。立ち直れないでいると、「ぼくはパパもだいすきだよ!」と、真尋がすかさず励ましてくれた。まだ小さいのに、男心のわかる優しい子だ。
お礼にその頭を撫でて少し気を取り直し、「いったいこいつのどこがそんなに好きなんだ?」と真純に聞いてみると、「カッコいいところ」と、これまた即答だった。
自分の話題だけに、かえって口を挟みづらいのだろう。無表情の下で困っている男の姿を、改めてまじまじと見詰めてみる。
まあ、真純の気持ちはわからないでもない。御田は出会った当初から嫌みなくらいいい男だったが、ある程度年齢を加えた今は人をさらに惹きつける、魅力的な男になった。
威圧感がありすぎるから万人をひきつけるとはいかないかもしれないが、一部の女の目には、こういう男はたまらなくセクシーに映ることだろう。これだけ幼いのに今からこの男の魅力がわかるとは、真純の将来も楽しみなことである。
くつろいだ格好をしていると、御田の体格のよさは余計に際立って見えた。いったいいつ鍛えていて、こんな体をキープしているのだろう。
大体、この引き締まったウェストはなんだ。けっして細くはなく、だがたるんだところはまったくなく、筋肉でがっちり覆われている。もしこの腹筋を殴ってみたとしたら、痛むのはきっと永江の軟弱な拳のほうだろう。
「――なにをしている」
「いや、あいかわらずいい体してるなと思って」
いきなり腹筋を撫で始めた永江に、御田が困惑したように眉を寄せる。
それでも構わず撫で繰り回していると、次第に眉間の皺を深くし、ついに「やめろ!」と言って永江の両手首をつかみ、無理やり引き剥がした。その過剰な反応に、永江よりも足元の双子のほうがびっくりした顔になった。
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