大人の約束
3
――――御田とはじめて出会ったのは、もう十年以上も前。高校を卒業し、大学に行くための学費稼ぎに飛び込んだホストクラブでのことだった。
当然そのとき永江は未成年だったのだが、なんというか、まあ褒められたことではけっしてないのだが、そこらへんのことはとてもアバウトな店だったのだ。
永江よりひと月早く入店していた御田のことを、店のマネージャーは、「おまえと同い年だ」といって紹介してくれた。ほぼ同期で同い年だから、仲良くやれという配慮だったのだろう。
だが永江は、にわかにはマネージャーの言葉が信じられず、呆気にとられて男の顔を見上げてしまった。
永江との実際の身長差は十センチほどだろうが、立派に完成した押し出しのいい体格の威圧感からか、もっと背が高いような感じを受ける。こちらが眺めていてもにこりともしない顔は、秀麗に整っているものの、近寄りがたいほどふてぶてしい面構えだった。
これでまだ十代だとしたら、あと二、三〇年経ったときは、いったいどんな風になってしまうのか。こんなに生き急いで成長する人間がいるものかと、そこまで思ってしまうほどに御田は、端的に言えば当時から老けていたのだ。
そしてその外見から受ける印象どおりに、御田は接客のときも常に落ち着きはらっていて、羽目を外したり客にお愛想を言ったりすることのない変なホストだった。
しかしそれがかえって嘘や虚飾に疲れた水商売の女たちなどに好評で、対照的に親しみやすい顔立ちと誰にも負けない愛想のよさ、場の空気を読むのに長けた性質ですぐに常連客が山ほどついた永江とは、やがて売り上げの一、二を競うようになった。
この世界では、売れっ子のホスト同士は反目しあうのが常らしいが、あまりにも互いの性質が違いすぎるためか、同じクラブ内でずっと働いていても、御田と対立するようなことは結局一度もなかった。
むしろ入店時から苦労をともにしてきた仲間という意識のほうが強くて、店内では互いを一番親しい相手とするうちに、大学卒業後もホストを続けていた永江は結婚を機に足を洗い、御田もまた、経営者になることを決めて一線から身を引いた。
それからも、永江の妻や、やがて生まれてきた子どもたちをも含めて、御田との親しい付き合いは続いていたのだが……。
そのことが、やがて大変な事態を招くことになる。
永江の傍でたびたび会う機会のあった御田のことを、永江の妻が、あろうことか好きになってしまったのだ。
はじめのうちは許されないことだと思って、胸に思いを秘めていた妻も、やがて堪えきれなくなったらしい。この家を出て、御田のもとに行きたい。離婚してほしいと、ある日唐突に、永江に切り出してきた。
その言葉を聞いた当初は、永江は御田と妻が不倫したのかと思った。だが、妻の話を聞いている間に、そうではないのだとすぐに気づいた。御田への恋は、妻の完全なる片思いだった。
そうと知って安堵するとともに、永江は御田に受け入れられるかどうかもわからない恋で、家庭を、自分を捨てていくのかと、なんとか妻を説き伏せようとした。
しかし妻は意固地に目を伏せ、「あなたの妻のままでいたら、御田さんに好きということもできない。それはどうしても耐えられない」と言い張った。それは妻なりの誠実さだったのかもしれないが、永江には到底理解のできない理屈だった。
不毛な話し合いを何度も重ね、さんざんもめたあと、最終的に永江は御田も呼んで、三人で話し合いの場を持つことにした。
妻が御田に思いを打ち明け、御田がそれにどう応えるかで今後の道を決めようと、そう腹をくくったのだったが、この騒動にはまだ隠し玉が潜んでいた。それも最大級の爆弾が。
呼ばれるままやってきた御田に、必死な眼差しであなたが好き、一緒に暮らして欲しいと思いを告げた永江の妻に、御田はわずかもためらう様子を見せず、誤解しようのないはっきりした口調で言った。
「悪いが、俺はあんたに対して特別な感情は持っていない。あんたに対するときの態度に、なにか誤解させるようなところがあったのなら、悪いとは思うが」
小さなため息をつき、御田は一瞬永江の顔を見る。そしてなにかの決意を固めた顔で、ふたたび永江の妻に向かって唇を開いた。
「ほかの人間に対するときよりは、いくらか愛想がよかったり、親切だったりしたかもしれない。だがそれは別にあんたのことをどうこう思っていたからじゃない。あんたが永江の妻だったからだ。永江が大切にする人間なら、俺も大切にしなければならないと、義務感でそうしただけのことだ」
「義務感って、そんな」
唇を震わせ、妻はこらえきれない涙を流した。だがそんな彼女に、御田はなおも淡々と続ける。
「それ以外のなにものでもない。俺が惚れているのはあんたじゃない。そこにいる男なんだから」
――――え?
そこにいる男って、いったい誰だと、一徹な眼差しがしっかりこちらを見据えているにも関わらず、永江は思わず左右を見回してしまった。もちろん隣には呆然とした顔で座っている妻しかいない。
恐る恐る自分の顔を指差し、尋ねるような仕草をすると、御田は「そうだ、おまえだ」というように重々しい頷きを返した。ひくっと頬がひきつる。そのとき、正気を取り戻した妻が絶叫した。
「なんで私よりもこの人なんかがいいのよ!」
妻に「なんか」呼ばわりされてしまっても、永江はそのことに気づくこともできない。ただすっかり飲み込みの悪くなった頭で、ぼんやりと御田の言葉を聞いていることしかできない。
「こいつは自分ってものをちゃんと持っていて、だが俺とは違って、それを押し通しても人を傷つけたり、不愉快にさせたりはしない。……仮に裏切ったのがあんたでなくこいつのほうだったら、こいつはどんな悪知恵を使ってでも、八方まるく収めようとしただろう。こいつのそういうところを尊敬――は別にしていないが、どうやら俺はたまらなく好きらしい」
そして抑揚のない声でつけ加えた。
「……永江があんたと結婚すると聞いたときは、あんたを殺してやりたいと思った」
いきなり頬に鋭い衝撃が走った。
激怒して立ち上がった妻に、横っ面を張り飛ばされたのだと永江が理解するまで、数秒かかった。そしてその後わいてきた疑問はもちろん、「なんで俺が殴られなきゃならない」ということである。
公平を期したのか、妻は直後に御田の頬も張り飛ばしたあと、離婚届を叩きつけて出て行ってしまった。あとに残されたのは間抜けな顔をした永江と、なにを考えているのかわからない顔で、むっつりと黙り込んでいる御田だけだ。
妻を追うべきなのかと、残された離婚届を眺めながら永江はぼんやりと考えた。だが、結局は行動を起こすことができなかった。
妻はもう、自分を大事には思ってくれていない。そういう人間とこの先も連れ添おうとすれば、きっと互いに途方もなく虚しい人生が待っていることだろう。
今、妻が戻ってきてくれれば、もしかしたらやり直すこともできるかもしれないが……。しかし一度閉ざされた扉は、どれだけ待っても再び開くことがなかった。
もう妻は戻ってこない。
そう確信せざるを得ないだけの時間が流れてから、永江はゆっくりと口を開いた。永江とともに、ずっと沈黙を守っていた男に向き直ると、気配を感じて御田もすっと顔を上げた。
「――御田、この騒動はおまえのせいじゃない」
「……」
「おまえのせいだなんて思ってない。でも、だからといって、俺はおまえをまったく恨まずにいることもできない。それに俺は、好きといわれても、そういう意味でおまえに応えることはできない……と思う。悪いが、想像もつかない」
「……そうだろうな」
だからこれまで言わなかったんだと呟いた男に、なんでそのまま黙っていてくれなかったんだと、責めたい気持ちでいっぱいになる。だがそれだけはなんとかこらえた。告げるつもりのなかった言葉を無理に御田に言わせてしまったのは、永江自身と、永江の妻だ。
「……絶交だ。ここを出て行ってくれ。もうおまえとは、二度と会いたくない」
再び沈黙が流れる。妙に長く感じる沈黙だった。その間、永江の姿を網膜に焼きつけるようにじっと見つめたあと、御田はなにも言い残さず、静かに部屋を出て行った。気配が消えていく。あとに何も残さないまま……。
妻と御田と。一生大事にしようと思っていた存在が、続けざまに去っていく。ひどい孤独感に、永江はそのまましばらく身じろぎひとつすることができなかった。
Copyright(c) 2009 SukumoAtsumi All rights reserved.