大人の約束
2
マンションの部屋に帰りつき、靴を脱いで廊下に上がったところで、両膝に衝撃をうけて永江はよろめいた。
「パパ、おかえり!」
「おかえりなさい」
見事にそろった高い声。
永江の右足と左足に短い腕でそれぞれしっかとしがみついているのは、目に入れても痛くないほど可愛い永江の子どもたち、真尋(まひろ)と真純(ますみ)だ。
男女の双子である彼らは、真尋が男らしく髪を短く切りそろえ、真純が肩まで伸ばした髪をふたつに分けて綺麗なリボンで結んでいるほかは、見分けるのが難しいほどよく似た容貌をしている。
「ただいま、真尋、真純」
それぞれの手を伸ばして、ふたりの頭を撫でてやると、くすぐったそうな声を上げて、またまとわりついてくる。まだ一本一本が細くてしなやかな黒髪は、触ると少し湿っていた。もう食事を終えて、風呂もすませてしまったらしい。どうりでふたりともパジャマを着ているわけだ。
「今日の夕飯はなんだった? 御田(みた)のおじちゃんはまだいてくれてるのか?」
子どもたちの手を引いて廊下を歩きながら尋ねると、愛らしい声が答えるより先に、地を這うような低い声が響いてくる。
「……誰がおじちゃんだ。子どもに変な呼び方を覚えさせるな」
「よう御田、ただいま」
ダイニングキッチンに入ると、御田憲章(のりあき)がこちらをぎろっと睨んでいた。やたらと威圧感があり、やたらと体格のいい男だ。
不機嫌な顔に微笑んでひらりと手を振ると、腰に黒のギャルソンエプロンを巻いた男は余計にむっつりと口元を曲げ、永江の言葉を無視して料理の皿をレンジに突っ込んだ。
加熱ボタンを押して、「早く着替えてきて、とっとと食え」と指図してくる。子どもたちが永江の左右から、口々に今晩のメニューを教えてくれた。
「あのねあのねっ、きょうのごはんはからあげとね、あとなんかみどりいろの、ぶつぶつのやさいとね、にんじんと、あとおみそしるがあったの。からあげはおいしかったけど、みどりいろのやつは、ますみはたべなかったんだよ」
「まひろだって、にんじんたべなかった! それにますみ、みどりのやつたべたもん。たべたくなかったけど、みっちゃがたべろっていって、口のなかにいれたんだもん!」
「そんなの、ぼくだっておなじだよ。にんじんのみこめなくて、げーってやろうとしたら、だすな! ってみっちゃにおこられた」
「みっちゃ」とは子どもたちが勝手につけ、本人の意思を無視して定着させてしまった御田の愛称だ。最初は「みっちゃん」と呼んでいたのを、昔聞いた童謡に出てくる名前を思い出すといって御田が嫌がったところ、「みっちゃ」に改名されたというささやかなエピソードがある。
机の上に並んだ皿を見るに、緑色のぶつぶつの野菜とはブロッコリーのことらしい。これとニンジンをボイルして出すとは、御田もなかなかチャレンジャーだ。子どもたちの好き嫌いをなくそうと、いつも実の父親である永江以上に一生懸命になってくれている。
チン! とレンジが軽い音を立てた。
着替えてこいと言われたが、構わず永江はシンクで手だけを洗うと、そのまま席についた。今日は仕事が忙しく、まともに昼食をとる時間がなかった。今にも飢え死にしそうなのに、着替えなんて悠長なことをしていられない。
そんな永江に御田は不満そうな顔を見せたものの、長年のつきあいで説教しても無駄なことはわかっているのだろう、温まったから揚げを野菜をのせた皿に盛り、ごはんと、きのこのみそ汁を添えて出してくれる。そして永江が食べはじめる横で、寝室を指しながら子どもたちに言った。
「ほら、おまえたちはそろそろ寝ろ。俺はもう帰るから」
「えー、まだねむくない。ゲームやりたい」
「いいからふとんの中に入れ。そうしたら、すぐに眠たくなる」
「じゃあ、みっちゃ、いっしょにねてー!」
「だめだ。俺はこれから仕事なんだ。そして子どもはよく食って遊んで寝るのが仕事だ。わかったらさっさと寝ろ」
甘やかさずにきっぱりと言い、御田はエプロンを外すと、代わりに椅子の背にかけてあったジャケットを羽織った。
「みっちゃ、おやすみ!」と、声をそろえる子どもたちに、やはり無愛想な声で「おやすみ」と返し、さっさと部屋を出て行こうとする。
「みは、まはあひはは」
からりと見事に揚がったから揚げを咀嚼(そしゃく)しながらその背中に向かって永江が「また明日な」と手を振ると、背中越しにまたじろりと睨まれてしまう。
「……口の中にものを入れながらしゃべるな。子どもの教育に悪い」
口うるさい母親みたいに小言を残して、今度こそ御田が部屋をあとにする。このままひとつ上の階にある自分の部屋にもどり、仕事に行くための支度をするのだろう。
時計の針は午後九時をとっくに回っている。しかし御田が働いている夜の世界では、これからが稼ぎどきの時間帯だ。太陽をまともに見る機会は沈んでいくときと上ってくるときくらい。そんな無茶苦茶な生活を毎日続けている。
自分もかつては十年近くそんな生活を続けていたはずだが、規則的な生活がすっかり身についた今となっては、もう一度同じことをしろと言われても絶対に無理だ。
若いころならともかく、御田も自分と同い年のはずなのに、なんでいつまでもあいつはあんなに元気なのだろう。信じられないやつだと思って、行儀悪く箸先を噛む。
御田は今、ホストクラブの経営者をしている。歌舞伎町や六本木など何か所かに店を持ち、いずれも人気店に仕立てているやりてのオーナーとして、業界内外で評判が高い……らしい。
そんな男が。間違ってもケンカしたくない立派な体格と標準装備の仏頂面、そして厳然とした態度で部下たちから常に畏怖と尊敬を集めまくっているあの男が。毎日エプロンをつけて料理をつくり、子どもの世話をしているなんて、まさかだれも想像できないだろうなと思う。
からりと揚がったから揚げに歯を立てると、中から肉汁があふれ出し、口の中いっぱいにスパイシーな香りが広がった。
世話になり始めたころは永江と同じくらい、いや、永江よりもさらに家事のできない男だったのに、ずいぶん努力したものだと思う。永江はまだ、揚げものに挑戦してみたことはない。
今度揚げ方のコツを教えてもらおうと思いながら、食べ終わった皿を片づけて、子どもたちの寝室に向かった。
御田の言葉どおり、子どもたちは布団に入ったとたん眠ってしまったようだ。安らかな寝息に心が和む。安心しきった、幸せそうなふたつの寝顔。
この顔をいまこうして眺めていられることを、目には見えないなにかに、そして常に自分を支えてくれる男にたいして、永江は心からの感謝をささげた。
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