大人の約束

 一日の売り上げの集計作業を終え、永江佳幸(ながえ・よしゆき)は事務用の簡素な椅子の上でやれやれと伸びをした。
 メガネを外して目頭をもんでから、もう一度かけ直し、パソコンの電源を落とす。そして店に出ようと椅子から立ち上がった。
 永江が店長を務めている、このアサヒヤ時計店の閉店時刻は午後八時だ。それからもう三〇分ほどが過ぎている。
 店内は閑散とし、本来なら従業員以外の人間がいるはずがないのだが……。
 事務所と店をつなぐ小さな扉を開けると、すぐそこにある、ふだんは商談や商品の詳しい説明をするときなどに使用しているカウンターの端に、細身の男がひとり座っていた。
 真剣な顔つきで、カウンターの上に広げたテキストと睨みあっていた彼は、永江が入ってきたことに気づくとはっと顔をあげた。きりりとした眉が印象的な、繊細に整った顔立ちに、永江は笑いかける。
「ご精が出ますね佐久間さん。試験はいつなんですか?」
「来月なんですけど……、すみません、永江さん。しょっちゅう場所をお借りしちゃって」
 恐縮しきって頭を下げた彼の名を、佐久間久嗣(さくま・ひさし)という。
 まだ年若い彼はこの店の顧客であり、最近新しく雇った従業員の親しい友人――と形容していいのか悩むところだが――であり、また、永江もいつも利用している鉄道会社で働く車掌でもあるのだが、将来的には運転士になりたいと考えているらしい。
 そのための試験が近々あるということで、待ち人の仕事が終わるまでのわずかな時間を使い、場所を借りてこうして勉強に励んでいるのだ。目的のために努力を惜しまない人間は好きだ。永江は笑みをさらに深めた。
「お客様がいらっしゃらないときなら、いっこうに構いませんよ。それに佐久間さんがいらっしゃる日は、阿達(あだち)君がいつも以上に張りきって働いてくれますし。彼のためにも、もっと頻繁にいらして下さったら嬉しいくらいです」
「そ、そうですか? ……って、え?」
 言葉の意味をつかみそこねて、あいまいに頷いた佐久間の顔が、一呼吸おいてみるみる赤く染まっていく。
 おや、と内心首を傾げた。ひょっとして、佐久間はまだ阿達との関係がばれていないつもりでいたのだろうか? それなら悪いことを言ってしまったけれど。
「車掌さんお待たせ、帰ろうっ」
 そこに清掃用のモップを店の奥に片付けてきた阿達東吾(とうご)が姿を見せた。
 子どものように弾んだ声を上げた彼は、一八〇センチを超えるモデルのような八頭身体型で、二十歳そこそこの若さでありながら、ゼニアでもラルフローレンでも何でも着こなしてしまう、甘く整ったマスクを持った美丈夫だ。
 誰しも微笑み返してしまうに違いない、引き込まれるような魅力的な笑みを浮かべて近づいてきた彼に、佐久間は笑い返したいのをこらえているような少しひきつった仏頂面をつくってみせた。
「なにが帰るだ、俺の家に『帰る』のは俺だけで、おまえは『行く』だけだろうが」
「あ、そっか。でも帰ろう?」
「――だから人の話を聞けよたまには、おまえはよ!」
 怒鳴られれば阿達はさらににこにこと嬉しそうな顔で近づいてきて、
「だって車掌さんのいるところが俺のいるところだからさ。やっぱり『帰る』だよ」
 などと、カウンターの上に置かれた佐久間の手に己の手を重ねながら、口説き文句のようなことを囁く。永江がすぐ傍に立っていることは、特に気にならないらしい。
 囁かれた佐久間はびくんと肩をふるわせ、その手を乱暴に振り払った。焦りきった顔でこちらを見て、永江がじっとふたりの様子を眺めていることを確認し、今度はさっと青ざめる。
 向き直ってきっと阿達の顔を睨むと、佐久間はものも言わずその頭を平手で叩いた。そしてずかずかと店から出て行ってしまう。
「え、車掌さん!? ちょっと待ってよ!」
 慌てて阿達はカウンターの上に広げられていたテキスト類を佐久間のバッグにしまい込み、自分の荷物と一緒に肩に掛けると、「すみません、お先に失礼します」と頭を下げ、佐久間のあとを追って駆け出した。
 シャッターを閉めるため外に出ると、アメ横の商店街の真ん中で佐久間をつかまえている阿達の姿が見えた。振り返り怒った顔でなにか言った佐久間をなだめすかし、頭を下げて、それから佐久間の荷物を持ったまま、肩を並べて歩き出す。
 気づいた佐久間が自分の荷物を指差してなにか言ったようだが、基本的に人に奉仕するのが好きらしい阿達は首を横に振って断った。荷物をふたつ抱えても特に苦にはならない様子で、嬉しそうに佐久間と話しながら歩いていく。
 永江はそんなふたりの背中を見送りながら、本当に仲良くなったなあとしみじみと思っていた。
 以前は佐久間が阿達のことを毛嫌いといっていいほど、徹底的に嫌い抜いていたのだが、どうやら振り払っても振り払っても懐いてくる阿達についに根負けしたものらしい。最近は仕事帰りに時間が合えば、阿達を迎えにこの店に立ち寄ったりしている。
 阿達は阿達で早く仕事が終わった日には、御徒町(おかちまち)駅の改札で佐久間の帰りを待ったり、時には「来なくていい!」と言われるのを無視して、佐久間の職場までお迎えに行ったりもしているようだ。
 自動式のシャッターが下りてくるキュルキュルいう音を聞きながら、そのままなんとなくふたりの後姿を眺めていると、はじめは人ひとり分くらいの間を開けて歩いていたのが、店から離れていくにつれ少しずつ近づき、やがて互いの肩が触れ合うほどの距離になる。
 阿達がなにか話し掛けたのに佐久間が呆れたような顔でなにか言い返し、その後ふたりで楽しそうに笑った。
 微笑ましいなあと思う。
 あの二人はきっと、特別な意味で付き合っているのだろう。佐久間は必死で隠そうとしているが、なにしろ阿達がそういうことをまったく気にしないあけすけな男なので、近くで見ていればいやでもわかる。
 永江自身は、ふたりがそういう関係だったとしても嫌悪を抱いたりはしないし、違和感も感じない。このままずっと、あのふたりがいい関係を続けてくれたらいいなと、心から思う。
 ――いやもう二、三年前だったら、少しは抵抗があったかもしれないか。
 ふたりの姿が完全に視界から消えてから永江は店の裏側に回り、戸締まりをもう一度確認して、裏口に鍵を掛けた。それからすぐ近くにある、小ぢんまりした駐車スペースに向かう。
 ちょっと前までは男同士の恋愛関係には少しも縁がなかったから、あの二人がそういう意味で付き合っていると知れば、戸惑うくらいはしただろう。
 だが今は、まったく縁がないというわけではない。ひとりの男の面影が永江の脳裏を横切る。かつて「たまらなく好きだ」と言われた、そのときの声も。
 あのときの告白から、もう三年の月日が過ぎた。あっという間だった。あれ以来、同じようなことを彼から言われたことはない。だが、これまでのどんなときよりも永江に近い距離に、今あの男はいる。
 その事実にある種の感慨を抱きながら、永江は駐車スペースに停めておいた愛用のバイクを路上に引き出し、身軽にまたがった。
 走り出すと、身を切るように冷たい風が全身に吹きつけてくる。この数日で色あせた街路樹の葉がいっせいに落ち、街は一気に冬めいた気配を漂わせ始めた。
 今にも雨を降らせそうに、空にどんよりと重く立ち込める雲。こんな寒々とした日に、もし家で自分を待っていてくれる人が誰もいなかったとしたら、どれほど寂しく感じたことだろうと思う。
 愛しい「家族」の顔を思い浮かべながら、一刻も早く家に帰ろうと、永江はバイクを走らせた。

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