大人の約束

「……人をからかうのも大概にしろ。おまえは俺をいったい、なんだと思ってるんだ」
 かみ締めた歯の奥から、御田が聞いたこともないような唸り声を出した。手首をつかまれたまま、永江はますます怯えている子どもたちに優しく声をかけた。
「真尋、真純、先に外に出て、エレベーターのところで待ってなさい。パパもすぐに行くから、勝手に乗っちゃ駄目だよ」
「パパ……」
「ん? どうした、できないか?」
 御田に手を離させ、緊迫した場の空気を無視してからかうように言ってやると、真尋と真純はすぐに気の強さを取り戻して、「できるよ!」と言い返す。ふたりの髪を、永江はぐしゃぐしゃっとかき混ぜてやった。
「よし、いい子だ。さ、行って。ちゃんと待ってるんだぞ」
 まだ不安そうな顔だったが、永江がいつもとまったく変わらない態度でいるので、少し安心したのだろう。心配げに振り返りながらも、ふたりはおとなしく言われたとおり外に出る。
 扉を閉め、さて、と永江は後ろを振り返った。
「なにいきなり怒ってるんだ。子どもたちが怖がっていたぞ。そんなにくすぐったかったのか」
「違う!」
 わかっているのにわざとボケると、御田はますます怒りを募らせたように、すごい目で永江を睨んだ。
「もうとっくに忘れちまったようだが、俺はおまえに惚れているんだぞ。下手なことになりたくなかったら、あまり挑発めいたことをするな」
 その眼差しと同じくらい、激しい声だった。永江の背に、ぞくぞくと震えが走る。忘れた、だって? そんなわけがない。あのとき言われた言葉は一言一句覚えている。
 御田が二度めを言おうとしないから、何度も何度も頭の中で繰り返しているうちに、死ぬまで忘れられそうにないくらい深く、記憶に刻み込んでしまった。
 目の前の瞳にはっきりと宿っている欲情の焔が、永江をひどく安堵させた。あまりにまったりとした健全すぎる生活に、もしかしてそういう関係は望まれていないのかとすら思っていたのだ。だが、違う。こいつははっきり俺のことをほしいと思っている。
 もう永江も三十の坂をとっくに越えた。それは御田にしても同じことだが、子持ちのこんなおっさん相手でも、御田は欲情を抱けるらしい。物好きなやつだと思う。そして物好きは自分もかと思い直した。
 ――まったく、いつからこんなやっかいな気持ちが芽を出していたのやら。
「……このくらいで挑発といわれてもなぁ。真尋や真純だって、もっとすごいことをいつもおまえにやってるだろう」
「そういう問題じゃないと、わかっているくせに言うな!」
 くそっ、と吐き捨てて、御田は再び永江の手首をつかんだ。そのまま強引に扉に押しつけられる。骨が軋むほど強く握られ、思わず顔をしかめた永江を、御田は飢えた獣のような目で見下ろしてきた。
「一度くらい考えてみたらどうだ。なんで俺が毎日毎日この部屋に通ってきて、メシを作ったり洗濯したりしてるのか。たしかにはじめは、おまえの傍にいられるだけでいいと思っていた。思っていたが……、俺がそれ以上を望むのは絶対に許されないことなのか」
 もう一度、今度はやや弱々しい声で、御田が「くそっ」と言う。その顔がゆっくりと近づいてきた。唇が重なる寸前で、永江は口を開いた。
「なにをするつもりだ?」
 御田が動きを止めた。囁きかけてくる息が、唇に触れた。
「これだけ尽くしているんだ。一度くらい褒美をくれたって、罰は当たらないんじゃないのか」
「褒美ねえ……」
 水商売の世界でもう十何年働いているやつが、たかがキスひとつで褒美などと言っているのが妙におかしい。急に御田が子どものように見えてきて、少しからかってやりたくなる。
「たしかにおまえには日々助けてもらっているが。真尋や真純は純粋におまえになついているんだぞ。可愛い俺の子どもたちを、おまえは利用するつもりでいたのか?」
 意地悪い質問に御田の眉がぎゅっと寄せられる。だが返ってきた答えに、ためらいはなかった。
「なんだって利用してみせるさ。ただでさえ男だってだけで、俺には分が悪い勝負なんだ」
「不利なのはなにも男だっていう点だけじゃあないだろう。俺と同じくらいオヤジなことも、俺より体がデカいことも、そのふてぶてしい顔も、全部ひっくるめてわりと不利だと思うぞ。せめてもっと中性的な美少年だったりしたらなぁ」
 わざとらしく嘆いてみせると、御田はわずかに唇をゆがめ、「美少年が好みなのか?」と聞いてきた。
「いや別に」さらりと答えてから、永江は喉の奥で笑いをかみ殺す。
 御田の、この情けない顔。
 さっき言ったことには少し嘘が混じっていた。御田の顔を、永江はかなり気に入っている。特に今見せている、少し眉尻の下がったふてくされたようなこの表情はたまらなく好きだ。自分だけが見ることのできる、特別な顔だと知っているから。
 手首を軽く動かすと、頑丈な手錠のようだった手から力が抜け、あっさりと外れる。
 そのまま扉を開け、外に出ようとして、永江はふと思いとどまり振り向いた。御田はまだふてくされた顔で、恨むようにじっと永江を見詰めている。
 どうしてもこみ上げてきてしまう笑いをこらえながら、永江は少し背伸びして、引き結ばれた頑固そうな唇に自分の唇を押し当てた。
 少しかさついた、温かい皮膚。見た目よりもやわらかい気がする。一瞬だけのその感触を味わって、永江はすぐに顔を離す。御田は思考がすべて吹っ飛んでしまったような呆けた顔で、カカシみたいに突っ立っていた。
「どうした。ご褒美がほしかったんだろ?」
 今のキスでずれてしまったメガネの位置を直しながら言うと、御田は二三度瞬きし、ゆっくりと指先を自分の唇に持っていった。そこに残った感触を確かめるように、何度も指先でなぞる。
 その仕草を見ているうちにもう一度キスしたくなってきて、いやでもそれはサービスが過ぎるだろうと、やりすぎてしまう前にきびすを返す。
 扉に手を掛けると、「おい、待て!」と焦った様子で御田が肩をつかんできた。言うべき言葉を選びかねているような、戸惑いの表情。あ、これも珍しいなと思って、永江は脳みそにしっかりとその顔を焼き付けた。
「何か言いたいことがあるなら早くしろよ。真尋と真純が待ってる」
 促すと、御田はようやく口を開く。
「……三年尽くした俺に、これだけか?」
 正直すぎる言葉に、少し笑った。
「もう三年尽くせたら、もう少し考えてやるよ」
 途方もなく先の長い話に、また永江が大好きな弱った顔になった男を置き去りにして、今度こそ部屋を出る。エレベーターホールで待っていた子どもたちが、「パパおそい!」と早速非難の声を上げてきた。
「ごめんごめん、御田と少し話をしてたんだよ」
「なんのおはなしをしていたの?」
 丸い目をさらにまん丸に見開いて、真尋が聞いてきた。その隣で真純もうんうんと頷いて、永江の答えを待ち焦がれている。
「ちょっとね、大人の約束をしてきたんだ」
「おとなのやくそくってなにー」
 そろって声を上げるふたりの背中を押してエレベーターに乗りつつも、今頃また部屋の中で困り顔のカカシになっているに違いない男の姿を想像して、笑ってしまう。
 まだ続いている子どもたちの追求をのらりくらりとかわしながら、永江はちょっと失敗したかなと思った。あと三年ものんびりしていられる自信がない。あの男を可愛いと思ってしまうこの気持ちを、いったいいつまで隠し通せるものだろう。
 早く明かしてしまいたいような、もう少し勿体ぶってあの困り顔を楽しみたいような、なんとも複雑な心境だ。
 とりあえずこの乾燥した季節が終わる前に、もう一度あのかさついた唇に触れてみたい気はするなと考えながら、永江はさっきの御田の仕草を真似るように、指先で自分の唇をそっと撫でてみた。

―END―

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