恋は語らず -Chapter.3-

14

* * *

「――はうっ!!」
 いきなり胸元がブルブルッと震えて、二反田は驚きのあまりシートから飛び上がった。
 一般の国産車よりもはるかに車内は広かったが、二反田の体格のよさが災いし、ルーフに思いきり頭をぶつけてしまう。「あうちっ!」強い衝撃を受け、二反田はのけぞるようにして再びシートに倒れ込んだ。
「聖様!? どうなさいました、大丈夫ですかっ」
「……大丈夫だ、気にするな。車も止めなくていい!」
 頭のてっぺんを押さえながら辛うじてそう言う。
 胸元の震動はまだ続いていた。ブルブルッ、ブルブルッと数回震えた後、ようやく静かになる。震動の発生元は、胸ポケットに入れてあった携帯電話だった。取り出し、ディスプレイも確認しないまま、腹立ちまぎれにそれをシートに叩きつける。
 まただ。またおかしな妄想に入り込んでしまった。
 早瀬がノーマルな性癖の持ち主だということは、二反田の中で動かぬ事実だ。なのにどうして気づくとあんなことや、そんなことをしている早瀬の姿を想像してしまうのだろう。不可解な焦りと苛立ちが湧き上がり、二反田はクッションのきいたシートに体を沈めながらも、落ち着きなく両足を上下に揺する。
 なにかがおかしかった。早瀬に再会してからまだほんの数日なのに、その間に自分の中で急激に、劇的な変化が起こりつつあるような気がする。その気配は感じる。だが具体的にそれがなんなのかが、いまいち分からない。
 得体の知れない不安を抱きながら、二反田は無理に気を静め、シートに放り出した携帯電話をようやく拾い上げた。確認すると、メールが一通届いている。差出人は二反田の同級生であり、実質的な下僕でもある田原だった。いったい何を書いてきたのやらと、面倒に思いながら二反田はメールを開き、そこに表示された意外な文章に驚いて、がばりと身を起こした。
『星辰高校の高梨より、早瀬の伝言を預かりました。以下、メールを引用します』
 冒頭には、まずそう書いてあった。高梨というのが誰だったかすぐに思い出せなかったが、二反田にとって重要なのはもちろんその後に続いていた名前だ。早瀬から二反田への伝言? いったい何だろう。滅多にないことに、胸がリズミカルな鼓動を刻み出す。
 それがいわゆるときめきと一般に称されるものだとは気付かないまま、二反田はいそいそと画面をスクロールし、メールの続きを読んだ。

『――――――――――――――――――――――――――――――――――
「二反田へ。
二人きりで話がしたい。明後日16時、星辰高校の美術室で待っている」
――――――――――――――――――――――――――――――――――』

 ひどくそっけない文面だった。しかも内容は伝言の伝言だ。だが、そのメッセージは二反田をひどく興奮させた。そわそわしながら、急にシートの上で居住まいを正す。
 話とは何だろうか。わからないが、いずれなんらかの相談事であるのは間違いないだろう。二反田は会心の笑みを浮かべた。とうとう早瀬も素直になって、二反田を頼りにする気になったらしい。ぶっきらぼうなメールはきっと照れ隠しか、これまでの二反田に対する邪険な態度を自ら振り返っての、気まずさの表れだろう。
 それにしても、なぜ明後日来るように指定してきたのだろうかと、二反田は首を傾げた。来てほしいというなら、別に明日でも、いっそ今すぐでも構わない。早瀬がどうしてもとこいねがうのならば、その望みを叶えてやるくらいの度量を二反田は備えているつもりだ。
 下手な遠慮ならば無用なのにともどかしさを感じたが、早瀬も心を落ち着かせる時間のゆとりが欲しいのかもしれないと思い直した。森岡に命じて車を戻させようとする衝動を、二反田はぐっとこらえる。
「……人の気持ちを汲むということは、ときとして途方もない忍耐を強いられるものなのだな、森岡」
 小さく呟いた声は、運転席まではっきりとは届かなかったようだ。「はっ、なんでございましょう?」と、森岡が聞き返してきたが、何でもないと首を横に振る。
 なにしろ伝言の伝言なので、送られてきたメールには早瀬のアドレスなどどこにも記されていない。
 明後日会ったときには、メアドの交換もしなければと胸に刻みながら、そこにまだ何か秘められた早瀬の思いがあるのではないかと探すように、二反田は車が邸につくまでの間ずっと、短いメールを何度も何度も読み返し続けた。

* * *

 二日間、二反田はもどかしいほど遅く時間が過ぎるのをじりじりしながら待った。
 メールで指定されたのはたった二日後だったというのに、小学生のときの遠足以来はじめて部屋のカレンダーに赤ペンで大きな丸印をつけ、一日が終わるとその日の日付にバツ印をつけて、残りあと何時間かと指折り数えた。オリンピックやワールドカップの前などによく見かける、イベントまでの残り時間をカウントする専用時計を取り寄せようかと、半ば本気で考えたほどだ。
 そして待ちに待った約束の日の約束の時間、二反田は意気揚々と星辰高校に向かった。
 授業が終わった後、早瀬に指定された時間まではいくらか余裕があったので、今日は私服に着替えてきた。私服といってもスーツだ。フランコ・プリンツィバァリーのジャケットとパンツに、タイはカメルッチのレジメンタル、靴ももちろんイタリア製のロングノーズ。
 前日の夜、自室のウォークインクロゼットに収められた膨大な服の中から二反田自身が選び抜いた組み合わせで、長身で肩幅があり、多少くどいくらいにはっきりした顔立ちの二反田にはよく似合っていたが、普通同年代の男に会うのにこんな気合いの入った格好をする男はいない。
 着る物の種類は違えど、その行動は初めてのデートに赴く少女さながらだったが、幸か不幸か、本人はその不自然さに気付いていなかった。ただ主大事の森岡だけが、うきうきと着飾って本来なんの縁もないはずの男子校に赴こうとする二反田に、今日も心配げな眼差しを送っている。
 車を星辰高校の正門前につけさせると、殺風景な男子校の校内には不似合いなキラキラした格好に驚いて振り向く周囲には目もくれず、もはや自分の家のような気軽さで二反田は美術室に乗り込んだ。
 ところが部屋の中を覗いてみても、誰の姿もない。腕にはめたロレックスで確認してみたが、間違いなく時間通りだ。いったい早瀬はどこにと思っていると、静まり返った部屋の奥のほうから小さく物音がした。かすかだが、なにか言い争うような声も聞こえてくる。自然と二反田の足先はそちらへと向かった。
 部屋の一番奥の壁の左隅には、小さな扉があった。上に「美術準備室」というプレートが張り付けられている。扉はわずかに開かれていて、物音はその隙間から洩れていた。
 迷いなく進んでいた足取りが、ふいに乱れる。
 言い争うような気配に紛れて、妙な声や吐息が交っている気がした。ごく押さえられた声量なので分かりにくいが、これはひょっとしなくても、「あの時」の声なのではないか。それも……おそらくは男同士の。
 学校の中で、いったい誰がそんな破廉恥なことをと、二反田は鼻白んだ。
 部屋の中に早瀬がいなかったのも、もしかしたら先客が行為に勤しんでいることに気づいて、逃げ出してしまったからかもしれない。とんでもないことだと思いつつ、相変わらず扉の隙間から漏れ聞こえてくる忍びやかな声につい耳をそばだててしまう。
 時折上擦るその声は、奇妙なまでに蠱惑的だった。
 はっきり男の声だと分かるのに、気持ち悪いと感じない自分に戸惑いを抱く。いや、さすがに直に現場を見れば違うのだろうが……。思って二反田はじっと扉の隙間を見つめた。
 男同士の濡れ場など見てたまるかという根強い抵抗感はあった。しかし一度頭をもたげた興味を殺しきれない。ほとんど怖いもの見たさで二反田は気配を潜めながら扉をもう少し大きく開くと、隙間から中を覗き込んだ。
 そして、二反田はその場で凍りついた。

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