恋は語らず -Chapter.3-

12

「だから一体何度言わせたらその腐れ頭は理解すんだ。俺は不能じゃねえっ。こんなもん、必要あるかーーー!!!」
 絶叫が二反田の鼓膜を貫いた。激しい声や険しい眼差しには圧力があるものだと、二反田は身をもって思い知らされた。あまりの迫力に、意志とは関係なく足が勝手に二三歩後退してしまう。
 パキッと音がして、靴裏がなにかを砕いた。床一面に散らばった錠剤を踏みつぶしてしまったのだ。その感触で我に返り、二反田は周囲を見回す。投げ捨てられて部屋の片隅に寂しげに転がっているビンが目に映り、深々と嘆息を落とした。
「早瀬。ヤケになったところで、いいことはないぞ。現実を受け入れ、僕の厚意を受け入れるのが君にとっても結局最善なのだと、なぜわからないんだ」
「だから現実がどうこうじゃなくて! ああ、もう面倒くせえっ」
 苛立ちもあらわに早瀬が己の髪をかきあげ、自分の足許に転がっていた錠剤を八つ当たり気味にさらに踏みにじる。傷や絵の具で汚れた床が、白い粉に塗れた。
「いいか。もう一度だけ言うから、よく聞け。俺の体はどこも異常ない。健康そのものだ。これ以上このことについてとやかく言ったら、本気で容赦しねえからな!」
「イ●ポじゃない? 本当に?」
 頷いた早瀬をなおも疑わしそうな目で見やり、二反田は慎重に口を開く。
「――その言葉が本当ならば、もっとも最近勃起したのは何月何日の何時ごろか話したまえ。そのときは実際に房事に使用したのか? それに、仰角何度くらいまで持ち上がったかも、なるべく正確に」
「……………………」
 パキッ、パキ、ゴリッ。
 いきなり動き出した早瀬の足の下で、錠剤が次々に砕け、宙に跳ね上がった。「もったいない!」と行成が非難めいた声を上げたが、早瀬の歩みは止まらない。どころか、声が耳に届いた様子もない。
 数歩で二反田の目の前に立つと、早瀬はぐいっとその胸倉をつかみ上げた。その目は完全に座ってしまっている。
「……どうしてそんなことを俺がお前に教えなきゃならないのか、まずその理由を聞かせろ」
「なんだ、やっぱり言えないのか。どうせ本当はイ●ポも治ってないんだろう? 恥ずかしがっても」
 仕方ないのに、と。二反田は言おうとしたのだが、その言葉は喉のあたりで中途半端に止まったまま、口に出すことができなかった。ふいうちに強烈なボディブローが二反田の腹にめり込み、三秒ほど呼吸が止まってしまったからだ。
「ぐふっ! は、早瀬。なぜ……」
 ようやく出せたのはそんな呻き声だった。口内に酸っぱい味が広がる。胃液が逆流してくる気配に二反田はとっさに片手のひらで口もとを押さえ、もう片方の手で腹を押さえながら体をくの字に折った。
 激しい痛みに眩暈がした。お坊っちゃん育ちゆえ、二反田は生まれてこのかた荒っぽいことにはほとんど縁がない。突然受けた暴力の衝撃は大きかった。しかもいま二反田の腹を殴ったのは早瀬だ。彼には破格に親切にしてやり、心にかけているというのに、それを理解しようともせず、どころかこんな野蛮な行為に訴えてくるなんて。悪夢としか思えなかった。
 目の前に仁王立ちになり肩をいからせている早瀬に、二反田は苦痛をこらえ、必死で訴えかけた。
「なぜだ早瀬。なんで僕を殴ったりするんだ。ひょっとして、八つ当たりなのか。だとしたら、そんなことをしても意味だ。僕を殴ったところで、君のイ●ポが治るのか? 治らないだろう。虚しくなっただけのはずだ」
 あくまで自分の思い込みを捨てない二反田に、早瀬の眉がつり上がる。ものも言わないまま、その片足がすっと持ち上がった。今度は腹ではなく、直接二反田の口をふさごうとしたのかもしれない。だが間一髪、そのとき部屋に飛び込んできた男の声が早瀬の注意をひきつけ、結果的に二反田を彼の暴力から救うこととなった。
「聖様!」
 二反田の専属運転手、森岡だった。星辰高校に着くなり車を飛び降り、校内に駆け込んでしまった二反田を探して今まであちこち駆けずり回っていたものらしい。哀れなくらいに全身に汗をかき、苦しそうに胸を喘がせている。二反田の姿を見つけると一瞬瞳を輝かせたが、片腕で腹をかばい苦しそうにしている様子に、血相を変えて駆け寄ってきた。
「ど、どうなさったんです聖様。あっ!」
 森岡の視線が、床にばらまかれた錠剤にくぎ付けになった。
「まさか……、あの薬をお飲みになったんですか、聖様っ!」
「はぁ? どうして僕が。そんなわけがないだろう」
 あれは早瀬のために手に入れたんだ、変な誤解をするなと二反田が続けるのも聞かず、森岡は安堵のあまりうっすらと目に涙まで浮かべて喜んだ。
「よかった。怪しげな薬をお求めになって一体どうなることかと思いましたが、ご使用になる前にご自分で思い留まってくだすったんですね」
「だから、なんで僕がこんな物を使わなければならない。これは尊い友情から、僕が早瀬へと……」
 重ねて説明しようとするが、主に似たのか、森岡は自分の考えに取りつかれると人の話を聞かなくなる男だった。腕時計の時間を確認し、慌ただしく二反田を急かす。
「さっ、聖様。こんなところで悠長にしている時間はございません。予約の時間が迫っております。早くお車にお戻りください」
「予約? なんのことだ」
 唐突な言葉に二反田は首を傾げた。予約といわれても、今日このあと、どんな予定も入れた覚えはない。
「ご安心ください。この森岡、聖様の秘密が周囲に知られるような不始末は決して致しません。これからお連れするのは、芸能人や政治家も御用達の、積んだ金額に比例して口の堅くなる類のスタッフで固められた、信用のおける病院でございます。誰にも知られずに、きっと聖様の下半身の悩みも解決してくれます」
 嫌な予感を覚えて、二反田は恐る恐る口を開いた。
「……ひょっとしてお前、僕を泌尿器科にでも連れていくつもりか?」
「いいえ、ED専門外来です。男性器の勃起不全を専門に診るお医者様がいらっしゃるところです。大変人気のある先生らしく、滅多に空かない予約を今日無理にねじ込んでいただいたのですよ。時間に遅れるわけにはまいりません。さ、お早く」
「いや森岡、だからだな、お前は誤解して」
「お早くっ、聖様!!」
 有無を言わさず腕をつかまれ、引っ張られた。早瀬に殴られたダメージがまだ残っている二反田は、ろくに抗うこともできない。鬼気迫る形相の森岡に早く早くと急かされるままに、つい両足を動かしてしまう。
 気づけば美術室ははるか後方に遠ざかり、二反田は引き返すこともできなくなっていたのだった。

* * *

 突然現れた男に二反田が連れ去られていったあと、嘘のように静かになった美術室には虚脱感が漂っていた。
 いや、虚脱状態に陥ってしまったのは早瀬だけか。いったいどうするつもりなのか、行成は床に散らばった錠剤のうち無事だったものをせっせと集め、拾い上げた瓶の中に入れている。つまんだひとつにふっと息を吹きかけ、埃を飛ばしてから、行成はさっきの騒動中もほぼ一貫して口をつぐんでいた土岐にいぶかしそうな目を向けた。
「――なんで土岐、ニッ君の邪魔をしないの?」
「出し抜けに、いったい何だ」
 手持無沙汰に腰かけながら行成の作業を眺めていた土岐が、足をゆっくりと組み替えて聞き返す。ひととおり錠剤を拾い終えた行成は、ふたを締めた瓶を両手の間で弄びながら話を続けた。
「俺はニッ君を見てるとめちゃくちゃ面白いけどさ。毎日来てくれるのもはっきり言って大歓迎だけど。土岐は早瀬にまとわりつかれて、嫌な気持ちにならないの? 全然平気?」
「今のところ実害もないようだし、敢えて妨害する必要もないだろう。そもそも露骨にこいつが毛嫌いしているのが分かっているのに、なんで俺が気を揉む必要がある」
「実害ありまくりだっ!」
 そのとき、疲れ切ったように脱力して壁にもたれていた早瀬が、急に顔を上げて叫んだ。疲労と焦燥が、その顔にありありと浮かんでいる。
「俺がどれだけあいつに迷惑をこうむっているか、見てればわかるだろうがっ。困っている友達のことを助けてやろうとかいう気持ちに、少しくらいならないのかお前は。この薄情もの!」
「……『友達』?」
 言葉を、土岐が聞き咎めた。まさかそんなところに突っ込みが来るとは思わなかったのだろう。勢いよくしゃべっていた早瀬は、う、と息を呑み、気まずそうに視線をやや逸らす。
「……なんだよ。なんか文句あるかよ」
「別に。相変わらずかと思っただけだ」
 ひゅうっと窓の向こうで寒風が吹きぬける音がした。古い窓ガラスががたがたと音を立てる。風が室内に入ってきたわけではないのに、寒さに首筋を撫でられたような気がして、早瀬は無意識にうなじを手のひらでさすった。
 そんな早瀬に土岐は冷めた視線を送り、机の上に置いていた自分の鞄を手に立ち上がる。
「そんなに嫌なら、自分でなんとかしろ」
「俺が何を言ったって、聞こうとしないだろうが、あの馬鹿はっ!」
 さっさと美術室から出て行こうとした土岐の腕に、早瀬がすがりついた。二反田に自ら関わるのがよほど嫌なのか、わらにもすがる勢いで懇願を繰り返す。
「なあ土岐、頼む。俺たち親友だろう!?」
 まだ言うかとあきれる顔を、行成がした。土岐は完全に冷めきった表情だ。容赦なく早瀬の手を振り解こうとして、ふと思いとどまったように動きを止める。
「……土岐?」
 つられて早瀬も動きを止めた。わずかに考え込むような仕草を見せたあと、土岐が静かに口を開く。
「――いくらか過激な方法をとることになるが、それでもいいか?」
 過激な方法と聞き、早瀬は驚きに目を見開いた。それはつまり、二反田を殴ったり、蹴ったりして言うことを聞かせるということだろうか?
 早瀬もいま二反田を殴ったばかりではあるが、そういうやり方で人を従わせるというのは、あまり土岐らしくないような気がした。が、それであのしつこい男が退散してくれるのなら一向に構わない。二反田が痛い目にあうところを想像すれば正直胸がすっとしたし、土岐が手を下すのならばやりすぎるようなこともまずないだろうと思えた。
 土岐の腕にすがりついたまま、早瀬はこくこくと何度も頷いた。
「それでいいっ。一刻も早く実行してくれ」
 わかったというように土岐も一度だけ頷く。その様子を見守っていた行成が、興味を隠しきれない顔で身を乗り出してきた。
「ねえ土岐、今度はどんなあくどい手を使うの?」
 土岐が真っ当な方法を取るとは端から思ってもいないような、行成の口ぶりである。それを咎めるでもなく、土岐は早瀬の手を解かせると、鞄の中から携帯電話を取り出した。なにか操作しながら、さっさと扉のほうへ進んでいく。
「別にあえて手間をかける必要もないだろう。正攻法で行くさ。あの男も、はっきりと口に出して誓っていたしな」
「誓ってた? なにを?」
 この言葉は早瀬の口から出たものだ。
 二反田がこの学校に押しかけてきた時は二度とも、早瀬と土岐は一緒にいたはずだ。土岐が聞いた言葉は、早瀬も間違いなく耳にしているはず。だが頭の痛くなるようなフレーズを好んで使う二反田の言葉のほとんどは、早瀬の耳を右から左に抜けてしまい、あまり記憶に残っていなかった。
「あの馬鹿、なにか言ってたか?」
 思い出すのを諦めて聞くと、部屋を出ていきかけていた土岐が振り返り、唇の片端をわずかに上げてみせた。そのままなにも言わずに部屋を出て行ってしまう。
 あとに残された早瀬は、最後に見た土岐の笑みになぜだか不吉な予感を覚え、小さく肩を震わせたのだった。

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