恋は語らず -Chapter.3-

11

 いささか勇み足が過ぎたようだ。
 肘かけに右ひじを乗せて頬杖をつき、車窓を流れて行く景色を眺めながら、二反田は己の失敗を潔く認めた。
 早瀬に新しい恋人を紹介してやる前に、解決しておかなければならない問題があったことに、うかつにも気づかずにいた。肝心要のその問題を放置されたまま、いきなり女たちの只中に放り出されてしまっては、早瀬が激怒するのも無理はない。

 ――――そう、まずは早瀬のイ●ポを治療することが大事なのだ。それなくして、女と付き合うもなにもない。

 しかし、なにしろことはデリケートだ。ましてや自分の体のことでもない。イ●ポを治すといっても、さて、いったい何をどうしてやればいいのだろう。
 真っ先に思いつくのはいい病院を調べて紹介してやることだが、あれほど怒り狂っていた早瀬に病院を紹介してやったところで、果たして素直に足を運ぶだろうか。なんとなく難しいような気がする。
 あの細目とゴリラ男に依頼して、また早瀬を無理矢理連れて来させるという手もあるが、早瀬が帰ってしまったあとなし崩しに合コンもどきの会が解散になってしまったため、女性陣とろくに話すことができなかったふたりもまた、憤懣やるかたなしといった様子だった。
「話が違うじゃねえかっ!」と眉をつり上げ、田原の首根をつかんでどこかに引きずって行ってしまったが、あのあと田原は果たして無事だったのだろうか。とりあえず、今の時点では、田原からの連絡はない。
 まあ、田原に何があろうと構いはしないが、一度切れてしまった野獣をなだめるのは簡単ではないだろうなと、二反田は小さく吐息した。
 だが病院に連れて行くのが難しいとなると、ほかにあの業病を治すにはどんな方法があるのかと首を捻っていると、そのときふっと視界に何かが過った。
 最近めっきり数が減った電話ボックス。透明なその壁に斜めに貼り付けられた、白地に、でかでかと大きく書かれた黒文字の……。いま、目に入ったものにはなんと書かれていた?
「――停めろ!」
 突然鋭く命じた二反田の声に仰天し、車を運転していた森岡の肩が、鞭打たれたように跳ね上がった。
「は……、は、はいっ!」
 反射的に急ブレーキを踏みそうになり、後続車がいることに気づいて、額に冷汗をかきながら慌ててハザードを出す。動揺していてもさすがに堅実な運転で、素早く丁寧に路肩につけられた車から、二反田は勢いよく飛び降りた。
 道を逆戻りに一〇〇メートルほど走り、先ほど目にした電話ボックスのもとに駆け寄る。そこに貼られたビラをまじまじと眺め、二反田はむしりとるようにそれを剥がした。
「聖様。いったいどうなすったんです」
 車にロックをし、息を切らせながら森岡がようやく追いついてくる。
 唐突な主人の行動についていけず、目を白黒させている彼を、嬉々とした顔で二反田は振り返った。顔の前にビラを掲げて、弾んだ声で言う。
「これを見ろ、森岡っ」
「……?」
 訝しげな顔でビラに目をやった森岡の表情が、瞬時にひくりと凍りついた。
 信じられないように目を見開き、声を震わす。
「き、聖様。いったいこれは……」
「素晴らしいっ。僕は今まさに、こういうものを探していたんだ。これさえあれば、僕の抱えている悩みは、すぐにも解決することだろう」

* * *

「早瀬、いるかっ? もちろんいるだろうなっ!!」
 翌日の放課後。
 ノックをすることなど考えつきもせず、ばたばたと駆けつけてきた勢いのまま乱暴に美術室の扉を開いた二反田を、この上なく不機嫌そうな表情の早瀬が迎えた。
 眠っていたのだろうか。部屋の一番奥の汚い作業机に突っ伏した姿勢のまま、顔だけを上げてこちらを見やり、心底うんざりしたようなため息を深々と吐く。
 そのまま再び顔を伏せ、あからさまに無視の体勢に入った早瀬の代わりに明るい声を上げたのは、部屋の真ん中で石膏像と向かい合っていた行成だった。
「ニッ君! わーい、また来てくれたんだ」
 クロッキー帳をその場に放り出し、万歳のポーズで歓迎する。
 今度はどんな面白いことを仕出かしてくれるのかと、期待しているのだろう。つぶらな瞳がキラキラと輝いていた。
「今日はうちの制服を着てないんだね。あ、早瀬に会いに来たんでしょ? どーぞどーぞ、こちらに」
「ちょっ……、てめっ、行成!」
 言いながら、二反田の腕をぐいぐい引いて、早瀬のもとに連れて行こうとする。ぎょっとしたように早瀬が飛び起き、今更ながら逃げ場を探して忙しなくあたりを見回した。
 一方、二反田も行成から予想外の歓迎を受け、かえって出鼻をくじかれた気分で内心わずかに怯む。
 顔立ちは非常に愛らしいのだが、どこか得体の知れないところのあるこの少年に、まだほとんど面識がないにも関わらず、二反田はすでにして苦手意識を抱きつつあった。
 しかし二反田のそんな気持ちに気づくことなく、……気づいたところで面白がることはあっても傷ついたりはまずしないだろうが……、自分よりはるかに大きな体をずるずる引きずりながら、行成はどこまでも楽しそうに二反田の顔を見上げた。
「昨日はこの辺のかわいい女の子たちを集めて、みんなで合コンしたんでしょ? 早瀬がモテモテだったって、大塚たちがそこらへんで言いふらしてたよ。いいなー、俺も次は誘ってよ」
「な、なんだそのデマはっ!」
「デマなの?」
 間髪入れず叫ぶ早瀬に、行成がきょとんとした顔をする。
「デマに決まってんだろうが、信じるなっ!!」
「その話は、俺も聞いたな」
 わめき散らす早瀬の興奮を冷ますように、ひんやりと落ち着き払った声が、出し抜けに戸口のほうから聞こえてきた。その瞬間、ぎくりと早瀬の肩が揺れる。
 この声は……、と思って二反田は後ろを振り向き、ついで嫌そうに唇をひん曲げた。
 片脇になにやら書類を抱えて室内に入ってきたのは、あの気に食わない眼鏡男、土岐だった。行成が「あれ?」と首をかしげ、尋ねる。
「ナイスタイミングだけど、土岐。生徒会室に一度寄ってからこっちに来るって言ってなかった? もう用事終わったの」
「いや。生徒会室に向かう途中、他校の制服を着た生徒が堂々と、目の前を駆け抜けて行ったものだからな。見過ごしにもできず、ついてきた」
 そう言うと書類を机に置き、なにやら緊張している早瀬に、「それで」と感情を窺わせない目を向ける。
「さっきの話は、どこまでが本当なんだ?」
「どこまでって、全部嘘だ! 全部っ」
 額に脂汗をにじませながら、妙に焦った口ぶりで早瀬が釈明する。
「なんの説明もないまま無理やり車に乗せられて、馬鹿高そうなレストランに放り込まれて。あげく大勢の前で大恥をかかされたんだぞ俺は。しかも金も車も携帯もなかったから、帰りは徒歩で家まで歩くしかなくて。ようやく家にたどり着いたのが、日付が変わる直前で! 疲れるわ腹は減るわ親には叱られるわ、今日学校に来るだけでも、どれだけしんどかったか!」
「なんだ。だったら意地を張らずに、車を貸してくれと一言いえばよかったものを。勝手に腹を立てて帰ってしまうから、そんなことになるんだ」
 しまいに馬鹿だな、とまで二反田が付け加えたものだから、早瀬がこちらを振り向き、ついに切れたように机を荒々しく叩いた。歯軋りしながら、二反田を物凄い目で睨みつける。
「こ、この野郎。そもそも誰のせいであんな目にあったと……っ」
「そう、そのそもそもの問題だ! 事態の抜本的な解決のために、今日は素晴らしいものを持ってきてあげたんだよ、早瀬。遠慮なく僕に感謝したまえ」
 早瀬の怒りなどどこ吹く風で、二反田が押し付けがましくそう言うと、ポケットの中から小さなガラス瓶を取り出した。そして早瀬の右手首を強引につかみ寄せて、その掌の上にそっと載せる。反射的に二反田の手を振り払い、渡されたガラス瓶を見た早瀬が訝しげに呟いた。
「――なんだ、これ」
 不審げな顔をしながら、恐る恐る蓋を開ける。
 中には白い錠剤が縁際までみっちりと入っていた。それを確認してから蓋を閉め、今度は茶色い色ガラスの表面に貼られたラベルをしげしげと眺める。
 そしてそこに書かれてあった「V」で始まるアルファベットの文字を読み取って、早瀬は絶句した。背後から首を突き出してその様子を眺めていた行成が、同じ単語に目を留めて、感激したような声で叫ぶ。
「うわー、これってひょっとしてバイ●グラ!? 俺はじめて見た」
 昨日帰り際に見つけたビラは、これの広告だった。大事にビラを持ち帰った二反田は、すぐにビラに書かれてあった連絡先に電話をし、商品取り寄せの交渉をしたのだ。
「聖様にはまだそのようなものは必要ございませんっ!」と、なにやら勘違いをした森岡が必死に止めるのを無視し、発送までには一週間前後かかるという相手に商品の数倍に当たる金額を囁いて、二反田は夜間にも関わらず無理矢理この薬を邸まで届けさせた。
 そして今日は制服を着替えることすら思いつかず、授業が終わるや否や物凄い勢いで、手に入れた薬を持って早瀬のもとに駆けつけてきたのだ。
 それもこれもすべて、早瀬にもう一度男としての自信を持たせるためだ。
 これを見ればさぞかし感激するだろうと二反田は決め付けていたのだが、その予測とは裏腹に、早瀬は薬を手にしても一言も感想を口にしなかった。ただこめかみに青筋を走らせ、瓶をつかんだ腕をぶるぶると震わせている。
 彼が抱えている悩みを一気に解決できる夢の薬を手にしているはずなのに、その表情は一向に嬉しそうに見えず、二反田は不思議に思った。
(ひょっとしてこの薬の素晴らしい効用を知らないのか?)
 もしそうだとしたら、喜ぶも何もない。
 己の配慮のなさを反省しながら、二反田が薬の効能を説明してやろうとしたとき、いきなり早瀬が腕を振り上げ、手にしたガラス瓶を思い切り床めがけて投げつけた。
 ガツンと凄まじい音で瓶が床に弾かれ、その衝撃で蓋が外れて、中からザッと白い錠剤が転がり出てきて床一面に広がっていく。思い切りそれを踏みにじり、粉々に砕いて、突然の暴挙に唖然とする二反田を、凄まじい眼で早瀬が睨みつけた。

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