恋は語らず -Chapter.3-
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皺ひとつ寄っていない、真っ白いクロスの上に置かれた繊細な造りのカップを、二反田はゆっくりと持ち上げた。コバルトブルーの地に朱と金で描かれた文様が美しく映えるカップは、マイセンのブルーオニオンだ。
中身を味わう前に鼻先を近づけ、淹れられたばかりのコーヒーの香を、まずは楽しむ。コナ独特の立ち上る甘い香りをたっぷりと堪能してから、ようやく一口含み、深いコクと豊かな酸味に二反田は満足げにひとつ頷いた。
カップを手にしたまま、視線を上向ける。教会を模して造られたというこのレストランの天井部は、壁際は低く中央部に近づくに従って高くなっていくアーチ状の構造で、そこからチェーンで吊り下げられた大小のシャンデリアと、南側の壁面全体を占める窓ガラス、さらにはステンドグラスを張られた天窓から降り注ぐ光が、店内を明るく照らしていた。
窓を背にした一番奥まった席に座りながら、二反田は店内を改めてぐるりと見渡した。ほどよい広さのフロアには、十ほどのテーブル席がゆったりとした間隔で並べられており、そこに子ウサギのように愛らしい女子高生から、フェロモン垂れ流しの肉感的な熟女まで、ありとあらゆるタイプの美女たちが座っている。各々に装いを凝らし、店内はまさに百花繚乱の趣だ。
ゆっくりとカップをソーサーに戻しながら、二反田はもう一度満足げに頷く。
店の雰囲気は悪くない。女の子たちも、時間がないところ無理に掻き集めさせたわりには、なかなかのレベルだ。あの男をまっとうな道に立ち返らせるため、急遽この場をセッティングさせたが、これならば十分に目的を達することができるだろう。手配を任せた田原は、なかなかうまくやったようだ。
その田原は、二反田の無茶な要望を叶えるため、昨夜は徹夜したようだった。今も目の下にクマを作った顔で大汗をかきながら、携帯電話であちらこちらに連絡を取っている。まだ到着していない女の子が数人いるらしい。そして何より、肝心のあの男がまだ姿を現していない。
「――だから信じろって言ってるだろ! 近隣の可愛い子、みんなそろえたんだから、一刻も早く彼をここに連れてきてくれよ。……ん? もう車に乗っているのか? ああ、それならよかった。とにかく彼を連れてきてくれさえすれば、あとはおまえらも一緒に楽しんで行って構わないからさ」
押し殺した声でそう話している相手は、恐らくあの男をここに連れてくる役目を担わせた者たちだろう。どうやらここにいる子たちを餌にして、操っているものらしい。田原もなかなか抜け目ないことだ。これなら将来、自分の部下として使ってやってもいいかもしれないと、二反田は自分では何もせず、ただ用意された席にふんぞり返りながら、鷹揚に考えた。
そんな二反田を、集められた美女たちはうっとりした目で眺めている。好みを選びそうなアクの強い顔立ちだが、二反田も黙ってさえいれば手足の長い、バランスの取れた長身を持った、なかなかの美男子なのだ。そしてなにより彼の血筋と財力が、無条件に女たちを惹きつける。
もちろん二反田も女たちの視線には気づいている。だが敢えて意識していない素振りでゆったりと足を組み、コーヒーを口に運びながら、悩ましげに眼を伏せた。
(しかしこれは困ったな。みんな僕に夢中になってしまって、いま早瀬が来ても目がいかないんじゃないか?)
今日のこの催しは男しかいない環境の中で道を踏み外しかけている早瀬に、女の素晴らしさを思い出させてやろうと、わざわざ企画したものなのだ。それなのに、肝心の女の子たちがその気になってくれないようでは、本末転倒というものである。
まあそのときは、早瀬が気に入った女性を僕が譲ってやればいいことだと、しごく楽観的に二反田は考えた。持つものは持たざるものへ恵んでやる。それが人として当然の思いやりというものだろう。
早瀬はどの子が一番気に入るだろうか。遠慮ない笑い声が多少うるさいものの、弾けるような若さと屈託ない笑顔が魅力的な、あの女の子か。それとも長い黒髪を肩に流した、いかにも清楚なあの女性だろうか。
……うん。彼女は、なかなか悪くない雰囲気だな。早瀬が気に入らなければ、あとで僕が声をかけることにしよう。
そんなことを取り留めなく考えていると、建物の外に車が止まる音が聞こえた。周囲も驚くような勢いで二反田は背後を振り返る。窓ガラスを透かして下を覗き込むようにすると、建物のちょうど入口のところに、見覚えのある外車が止められていた。その扉が内側から開かれ、大柄な男ふたりに引きずり出されるようにして、中から長身だがやや細身の男が姿を現す。途端に二反田の眼が輝きを増した。
(来たな、早瀬!)
カバンひとつ持っていない早瀬は顔を紅潮させ、怒り狂った様子でなにか怒鳴っているようだった。しかし彼を両側から挟んでいる男たちはまったく取り合わずに、早瀬の腕をがっちり拘束すると、弾むような足取りで店の正面玄関に続く短い外階段を上ってくる。やかましい足音が乱れ聞こえ、すぐにレストランの扉が外側から勢いよく開けられた。
「よっ、約束どおり連れてきたぞ、田原!」
まっさきに店内に足を踏み入れた星辰高校の制服を着た男が、細い目を三日月のような形にし、面長の顔に満面の笑みを浮かべて、ドア際にいた田原に声をかけた。「遅いよ高梨。みんな待ちくたびれてたんだぞ」と、答えた田原はすっかり疲弊しきった顔だ。
たしか高梨というのは、田原が所属している生物部の、後輩の兄にあたる男であったはずだ。弟を通じて田原に、ひいては二反田に、早瀬の星辰高校における噂話を教えた男である。ということは、僻み根性に満ちたモテない不細工男は彼だったらしい。なるほど、たしかに女にもてそうもない顔をしている。
その高梨の肩越しに、早瀬の顔が半分だけ見えた。彼は女ばかりで埋め尽くされた店内の様子を見て、唖然としているようだった。
「ほれ。とっとと中に入れ、早瀬」
もうひとり、早瀬とともについてきていたゴリラのように厳つい男が、ぐいぐいと早瀬の背中を店内に押し込みながら促す。
「押すなっ! 中に入れったって、いったいなんの集まりなんだよこれは。まずそこから説明しろ」
「だから合コンだって言ってるじゃねえか。しかも美女対ヤロー比が10対1近い、夢のような合コンだ。分かったら早く入れっつの!」
身も蓋もないことを言うが早いか、ゴリラ男は高梨と一緒になって、思い切り早瀬の背を突き飛ばした。「うわっ」と叫んで、つんのめるようにしながら早瀬の体が店内に飛び込んでくる。
視界を遮るものがなくなり、露になった早瀬の水際立った姿を目にした女たちの口から、次々に高い嬌声が上がった。二反田家の名に釣られてよく分からないままこの場に来た者がほとんどのようだが、突然の早瀬の登場に、露骨に目の色が変わってしまっている。
基本的に自分だけがちやほやされていたい二反田は、先ほどまで自分に秋波を送っておきながらたやすく早瀬に興味を移してしまった女たちにムッとしたが、そもそも何のために今日この場を設えたのかを思い出して、ぐっと感情を堪えた。
変な趣味に走りかけている早瀬に正道に立ち返ってもらおうと、これだけの数の美女たちを集めさせたのだ。彼女たちが早瀬に関心を持つなら、それは願ったり叶ったりではないか。
――まあ、一時的な興奮が収まったらどうせ再び僕の独壇場になるだろうがと思いながら、騒然とする周囲をよそに、二反田はおもむろに席を立って早瀬のもとに向かう。訳も分からずこの場につれてこられ、色めきたつ女たちの中に放り込まれて呆然としていた早瀬が近づいてくる二反田に気づいて一瞬目を見開いた。そしてすぐに苦虫を噛み殺したような表情になる。
「どうしてお前がここにいる……」
地の底を這うような声で聞いてきた早瀬に、二反田は大袈裟に眉をつり上げ、肩を竦めながら答えた。
「なんでって、今日この場所を用意して、君を招待したのは僕だからな。いないわけにはいかないだろう」
「これのどこが招待だっ!! ていうか、これ全部おまえの差し金なのか!? いったい何が目的で」
「差し金とは人聞きの悪い。これもひとえに、君のためを思いやってのことなのに。いや、詳しく話すのはよそう。僕は恩着せがましいことを言うのは嫌いだ。だが分かってくれるな、早瀬。君のことを一番よく知っていて、かつ君のことを一番に考えてやれるのは、この世で僕だけなのだと」
「………………何が目的なのかって聞いてるんだ、俺は」
早瀬が頭痛を堪えるように額を押さえながら、苦々しい表情で重ねて聞いてくる。ひょっとしたら熱でもあるのかもしれない。
二反田はぴかぴか光る床めがけて、深々とため息を落とした。恩着せがましい言動は本当に嫌いなのだ。しかし重ねて聞かれてしまっては、答えないわけにはいかない。
「まあつまりあれだな、敵に塩を送るというやつだ。川中島で幾度となく激しい戦いを繰り返していた武田信玄を救うため、上杉謙信は当時甲斐の国で不足していた塩を送り届けさせたという故事もある。美しい話だ」
「しお?」
ますます二反田の意図が分からなくなったらしい早瀬が、眉間に皺を寄せる。そんな彼に向かい、二反田は芝居がかった仕草で大きく両腕を広げながら、誇らかに胸を張ってみせた。
「男しかいない侘しい環境で、男と付き合っているなどと噂を立てられている君を、何もせずに見ているのは忍びない。今日のこの会合は、僕から君へのプレゼントだ。見たまえ、集ってくれたこの女性たちを! いずれ劣らぬ美女揃いだろう。気に入った女性がいたら、どんどんアプローチして構わないんだぞ。ああ、ただし分かっているだろうが無理強いは駄目だ。きちんと相手の意思を確認した上で、君が一番気に入った女性と交際するように――…」
よどみなく語っている最中から、早瀬のこめかみに細い血管が浮かび上がり、ぴくぴくと震え始める。くわっと大きく口が開かれた。
「ふざっけんな!!!」
いきなり大声で話を遮られ、二反田は目を丸くした。そんな二反田に構わず、早瀬は憤然と「おまえに女を世話してもらうような義理も必要もないっ!」と言い捨てると、そのまま踵を返して店の外に出ようとする。そうはさせじと、高梨とゴリラ男が瞬時に早瀬の行く手に立ちふさがった。
「大塚……、高梨〜〜っ。おまえらなぁ、いい加減にしとけよ」
こめかみをひくつかせて早瀬が軋んだ声を出すと、名を呼ばれたふたりはそろって口を尖らせた。
「だっておまえが帰っちまったら、俺らもここにいられなくなるじゃねえか。せっかく男の絶対数が少なくて、あぶれた女の子たちと仲良くなれるかもしれないチャンスなのに!」
「そうだっ。滅多にない絶好の機会なんだぞ。友人のためにちょっと協力するくらい、なんてことないだろうが。そもそも一体なにが不満なんだよ、こんな美女たちに囲まれて。この贅沢もの!!」
いいから早く席につけと強引に肩を押さえ込もうとするふたりと、反発する早瀬が揉みあっていると、店の扉がまた外側から開かれた。息を切らせながら、すらりと背の高い、制服姿の女子高生が飛び込んでくる。
襟元にふんわりと結ばれた臙脂色のリボンと、わずかに紫がかったグレイの地にワインレッドと薄青のラインが入った、ひらひらしたプリーツスカートの制服は、この近くにある女子高、八角女子学園のものだ。
田原が呼んだ、参加者のひとりだろうということは、その一際目立つ容姿から容易に察せられた。きゅっと吊りあがった目尻と肉感的な唇が魅力的な意志の強そうな美少女は、ざわつく店内に気後れした様子もなく入ってくると、ドア近くの席に座っていた同じ制服の女子高生に話しかける。
「ごめーん、遅れた。教室出ようとしたら担任に呼び止められて、いきなり説教が始まっちゃってさ。このままだと単位が足りなくて進級できないとか言っておどかすんだよ、まいったよー」
「そりゃ、しかたないっしょ。実美(みみ)、副業に力入れすぎなんだよ。少しは学校にも来なきゃ」
友人らしき少女が苦笑交じりに答えると、実美と呼ばれた少女は小さく唇を尖らせる。
「そう言うけどさー、せっかく最近グラビアの仕事が波に乗ってきたところなのに。……ていうかメールで呼ばれたから来たけど、コレっていったい何の集まりなの?」
彼女も詳しいことは聞かずに来たようで、首を傾げながら店内をきょろきょろと見回し、そして早瀬の姿を視界に捉えてあっと眼を見開いた。とっくに彼女のことに気づいていた早瀬が、絶望的な表情で口を開く。
「なんでおまえまで来んだよ……」
離れた位置に立っているふたりの間に、気まずい空気が漂う。いや、気まずそうなのは、大塚たちと格闘して髪も制服も乱した早瀬のほうだけか。どうやらふたりは以前からの顔見知りのようだ。
どんな関係なのだろうと、興味津々で二反田がふたりの姿を見比べていると、実美がグロスの塗られた肉感的な唇を再び開いた。そして何気なく。親しみを込めた口調で。その場に爆弾を投下する。
「あら武士(たけし)、久しぶり。イ●ポは治ったの?」
「……っ!?」
フロア中の空気が一瞬にして凍りついた。早瀬が登場してからずっと盛り上がっていた女たちが、一様に表情筋を強張らせる。そして軽蔑と同情が相半ばした眼差しで、硬直している早瀬を探るように眺めた。
ぴくりとも動かない早瀬に、実美が呑気に近づいてくる。自分の発言の不用意さには頓着していないようで片手を伸ばし、はるかに上背の勝る相手の肩をばしばしと容赦ない力で叩く。
「その様子だと、復活はまだまだ先ってとこかー。まああんたもこれまでちょっと遊びすぎてたことだし。しばらくは隠居気分で、ソッチは控えてもいいんじゃない?」
「……っ、……っ、……っ」
早瀬が返す言葉を探してパクパクと口を開く。が、食ってかかる気力もすでに尽きていたのか、やがて諦めたように口を閉ざした。グッとこぶしを握りしめ、再び荒い足取りで店の扉に向かって歩き出す。
「待て待て待て! だから帰んなってのに」
「るせえ、放せ!!」
再度伸びてきた大塚と高梨の腕を、早瀬が問答無用でなぎ払った。怒りがすでに頂点にまで達しているのだろう、容赦ない力だった。執拗に早瀬を食い止めていたふたりも、これには堪えきれずによろめく。その間に、扉を壊しそうな勢いで開いて早瀬は店を出て行ってしまった。階段を下るにつれて見えなくなっていく背中から、怒りのオーラが焔のように立ち上る幻影を見る。
どうやら早瀬のために良かれと思って立てた今回の作戦は、失敗してしまったようだ。
苦い認識を噛み締め、一連の騒動に呆気に取られている周囲をよそに、二反田はやれやれと嘆息した。
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