恋は語らず -Chapter.3-

9

* * *

「うおぉー、なんと鬼畜なっ!! 僕は君のことを見損なったぞ、早瀬っ」
 後部座席からいきなり上がった絶叫に、車を運転していた森岡は仰天して、危うくステアリングを切り損ねそうになった。ちょうど信号が変わって車を停められたので、恐る恐る背後を振り返ってみる。
「き、聖さま……?」
 まだ年若い彼の主人は、幅広のシートに腰掛けたまま前のめりに体を倒し、深く頭を抱え込んでいた。荒い息を吐いて何事かぶつぶつ呟いている尋常でない様子に、どこか悪いのではないかと不安になり、もう一度名前を呼んでみたのだが、返事がない。
 信号がまた青に変わり、なかなか発車しないロールスロイスに苛立って、後続の車がクラクションを鳴らしてくる。やむなく森岡は車を動かし、一番はじめに目に付いたパーキングの中に車体を滑り込ませた。
 すぐにエンジンを切って運転席を降り、後部座席に回りこむと、まだ頭を抱え込んでいる主人に、開いた扉の外から声を掛ける。
「聖さま。もしお加減が思わしくないようでしたら、主治医の先生にご連絡をお取りしましょうか。あるいはこのまま病院に向かっても……」
「構うな。いま僕が抱えている悩みは、お医者様でも草津の湯でも治せはしない」
 古い言葉をよくご存知でなどとつい言ってしまいそうになり、それが主人に掛けるにはいささか馴れ馴れしすぎる言葉であることに気づいて、森岡はすんでのところで口を閉ざした。代わりにかける言葉を選びかねて頭を悩ませていると、二反田が伏せていた顔をゆっくりと上げる。憔悴した目が、こちらを見つめてきた。
「森岡、ひとつ聞きたいことがある」
「は、なんでしょうか。私に答えられることでしたら」
 重々しい、深刻そうな口調に、森岡はハッと姿勢を正してかしこまる。
「もし学校の中で、男同士でキスしている生徒たちを見かけたとして、おまえなら何でそのふたりはそんな行為に及んでいたんだと考える?」
「は!?」
 予想の範疇外の質問に、森岡は顎を外しそうになった。いったいなんの冗談かと思ったが、二反田は真剣そのものの眼差しで、じっと答えを待っている。
「わ、私のような古い価値観を持った人間には、そのようなことをする若者の気持ちは理解しかねますが、どうしてそういった行為に及んでいたのか、ですか……」
 額の脂汗をハンカチで拭いながら、生真面目な初老の男は何とか答えらしきものを返そうと必死に努力した。頭に浮かんできたのははるか昔の学生のころの、甘酸っぱい思い出だ。
「その、私も高校生の頃は全寮制の男子校に通っておりまして。なにぶん周りに異性のいない環境でしたから、当時は少し姿のいい少年を見れば、不思議と胸がときめくのを感じたものです。卒業して女性と普通に付き合うようになってからはそのようなこともなくなりましたが、若者が同性同士でよからぬ行為にふけるというのは、恐らくはそんな、ごく一時的な感情から来る行動なのではないかと……」
 途切れ途切れそう話すと、二反田は納得したように頷いた。
「そういえば、あのユキとかいう少年も、後輩とおかしな雰囲気だったな。なるほど、やはり男子校などに通っているのが悪いのか」
 何度も繰り返し頷きながら、「そうだ、ホモになったわけじゃない。まだきっとホモじゃない。環境の悪化から、一時的に男相手に気が迷っているだけだ」などとぶつぶつ呟く。森岡はますます心配になってきた。いったい彼はどうしてしまったのか。同級生の男に、懸想でもしているのか。まさかと思うが、可能性がまったくないとはいえない。
 気になって仕方なく、幼いころからその成長を見守ってきた主人の様子をじっとうかがっていると、口許に手を当てて何か考えていた二反田が、やおら懐から携帯電話を取り出した。そしてこちらを見ている森岡に気づき、車を出すようにと手ぶりで指示してくる。逆らうわけにもいかず、後ろ髪を引かれる思いで後部座席の扉を閉めかけたとき、電話の向こうの相手に向かって話す二反田の声が森岡の耳に飛び込んできた。
「もしもし、僕だ。君に至急頼みたいことがある」
 言いながら思い出したように、二反田は身に纏っていた少しサイズが窮屈そうな制服の上着を、座席の上に脱ぎ捨てた。そして続けて吐き出された不穏な台詞に、森岡はギョッとしてその場に立ち竦んでしまった。
「金に糸目はつけない。場所もいくらでも僕が用意しよう。その上でできる限り迅速に、えりすぐりの美女たちを集めてきて欲しい」

* * *

 その翌日。星辰高校2年A組の生徒たちは下校前のHRが終わった瞬間、凄まじい勢いで席から立ち上がった男の大声に度肝を抜かれた。
「よーし授業が終わった! 帰るぞ、早瀬ーー!!」
「は?」
 出し抜けに名を呼ばれ、驚いて振り返った早瀬の首を、背後から伸びてきた太い腕ががしっと抱え込む。喉仏を圧迫されてぐえっとのけぞったところを、そのまま強引に扉のほうに向かって引きずって行かれそうになり、早瀬は慌ててなんとか首を捻じ曲げ、己を拘束している男に向かって叫んだ。
「お、大塚!? なんだおまえっ」
 普段なら授業が終わったあとは部活にすっ飛んでいくはずの男が、いつの間にか帰り支度を万端に整え、一緒に帰ろうなどと言ってきたわけが分からず、とりあえず早瀬はじたばたと抵抗した。
「ちょっと待て! なんで俺がおまえと帰らないといけないんだよ。大体俺はこれから部活に出るつもり……」
 その言葉を言い終わる前に、教室の扉が外側からスパンと勢いよく開かれる。やはり完璧な帰り支度を整えてそこに立っていたのは、大塚と同じバスケ部で主将を務めている高梨だ。頭を傾け、頬と肩の間に携帯電話を挟みながら、早口で誰かと会話している。
「おい、田原! おまえ、さっきの話間違いないんだろうな!? 万が一ガセだったらぶっ殺すぞ」
 物凄い形相でそう聞いた高梨に、相手が何か答えたようだ。満足そうに頷くと、高梨は満面の笑顔で電話を切り、こちらに向かってグッと親指を立ててみせた。早瀬を抱えていた大塚もそれを見て二カッと笑い、親指を立てて応える。
 勝手に通じ合っている彼らを訝しく見比べていると、高梨がずかずかと教室内に踏み込んできた。そして大塚にならうように早瀬の首根っこをぐいとつかみ、外に向かってまた歩き出す。
「よし、急げ大塚。時間がないぞ!」
「おうっ。ほらさっさと自分の足で立って歩け。いや走れ、早瀬」
「だからなんなんだよ、お前らは! 待てこら、引きずんなって!!」
 運動部に所属する男にふたりがかりで引きずられては、いかに大柄な早瀬とはいえ、抵抗するのが難しい。唖然と様子を見守っている行成や、ほかのクラスメートは力不足で頼れそうにないし、唯一体格的に頼れそうな土岐は、こんなときに限って用事で席を外している。
「おい、俺のカバン、コートもまだ机にっ……」
 それでもなんとか踏みとどまろうと必死になりながら、早瀬が往生際悪く机に向かって手を伸ばすと、容赦ない力でその体を引きずっていた大塚と高梨が、両側から声をそろえて同時に言った。
「んなもん、合コンに必要あるか!」
「は? 合コン??」
 何の話だと眼を白黒させているうちに教室から連れ出され、そのまま廊下を抜け、階段を下りて、昇降口まで引きずって行かれる。
 そして早瀬は校門の前に止まっていた左ハンドルの高級車の中に連れ込まれ、友人たちの手によって身ひとつで拉致されてしまったのだった。

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