恋は語らず -Chapter.3-

6

 階段を三階分上がり、廊下をまっすぐ歩いていくと、その先に特別教室の並ぶ一角が現れた。その一番奥にある、教室前に長机やら簡素な椅子やらを積み上げられた美術室の手前まで行くと、急に行成は慎重な足取りになり、他のふたりにも足音を殺すようにと仕草で指示した。
 そしてゆっくりと扉に近づいて取っ手に手を掛けると、ひそめた声でカウントを始める。
「いくよ? いち、にーの……」
 さん、のところでガラッと勢いよく扉を開けた瞬間、教室内から何かが転がる派手な音がした。行成が部屋の中に首を突っ込み、なにを見たものか両手を叩いて喜んでいる。春日井の大きな体が邪魔をして中が見えなかった二反田は、続いて教室内から響いてきたうわずった怒声に聞き覚えのあるものを感じて、慌てて戸口に駆け寄った。
「ゆ、ユキ……っ! てめえ、どうしてこんな早く」
「いつごろ戻るなんて、おれ言ってないもん。それともおれが早く戻ったらまずいことでもしていたの?」
「く……っ」
 含むもののある行成の問い掛けに、相手の男が答えられずに歯噛みする気配が伝わってきた。狭い隙間からかろうじて見えたのは、落ち着き払った様子で椅子に端然と座っている眼鏡の男と、その奥にもうひとり。
 傾いた椅子からずり落ちそうになりながら、顔を真っ赤にしてこちらを睨みつけている少し目尻の垂れた色男だった。その姿を見て、二反田は顔を輝かせた。
「早瀬!」
 いきなり自分の名前を呼ばれ、早瀬が行成から視線を逸らして、怪訝そうに春日井の背後を覗き込む。そしてそこに見つけた二反田の姿に、思い切り顔を引きつらせた。続けて発した声まで強張っている。
「お、おまえ、ひょっとして二反田か……?」
「その通り! 久し振りだな、早瀬」
 自分の存在を早瀬がきちんと覚えていたことに満足しながら、二反田は教室内に足を踏み入れた。そして二年ぶりに眼にした早瀬の姿に快い感嘆を覚える。
 こんな庶民の通う学校に入り、周囲に感化されてかつての宿敵もみじめに落ちぶれてしまったのではないかと危惧していたのだが、久方ぶりに見た早瀬は肉体的にも成長し、ひきしまったしなやかな体は中学のころよりはるかに男としての魅力を増したようだった。加えて以前にはなかった艶のようなものまでが加わっている気がする。
 懐かしむようにその姿をためつすがめつして、やがて二反田はいいだろう、というようにおもむろに頷いた。
(こうであってこそ、僕が唯一ライバルと認めた男。変わらないでいてくれて嬉しいぞ、早瀬)
 久々の再会に感慨無量になる二反田と対照的に、早瀬の表情は引きつったままだ。少しでも距離をあけようとするかのように、小さな木の椅子に座ったまま、じりっ、じりっと後方に下がっていく。
「な、なんでおまえがここに……」
 喘ぐように言った早瀬に、二反田はわざわざこんなところまで来た目的を思い出して、ずかずかと歩み寄った。
「そうだ。再会の感動にうっかり忘れるところだったが、早瀬! 最近の君にまつわる妙な噂はいったい何だ。僕の永遠のライバルであり、かつては幼稚舎の美晴先生や、二級上の西條さんを争った恋敵でもある君が、あんな噂を好き放題に流されて黙っているとはまったくけしからん。義憤のあまり、こんな辺境の地までこの僕がわざわざ出向いてきてしまったではないか!!」
「辺境って、峰華も大して変わらない場所にあるだろうが。――ていうか、噂?」
 なんのことだと整った眉をしかめた彼に、二反田はまた一歩近づく。すると早瀬はさらに一歩後退した。その背中がついにドンと壁に突き当たる。
「まさか聞いていないのか? 君が不能になって! それが原因で付き合っていた複数の彼女全員にこっぴどくふられて!! しかもそれでヤケになって男に走ってしまったという噂だ!!!」
 すべてを言い終わる前にがったーんと派手な音を立てて、ものの見事に早瀬の長身が椅子から転げ落ちた。小汚い床に手をついて辛うじて身を起こし、色を失った唇をわななかせながら尋ねてくる。
「お、おまえ、なんでそれを……」
「本当だったのか!?」
「いや違うっ! いったいどこからそんな噂を聞いてきたんだってことだっっ!!」
 ひきつった声でわめきたてる早瀬に、二反田は呆れたように肩をすくめて、残酷な事実を教えてやった。
「なにを言っている。うちの高校の生徒でさえ、知らないものは一人もいないくらいなのに。みんながおまえの噂をしているぞ」
「う、嘘だ……」
 二反田は知らなかったが、星辰高校内ではようやく始業式での一件にまつわる噂が沈静の兆しを見せ始めていたところだった。
 そんな矢先に他校内で今まさに同じ噂が駆け巡っていると聞いて、早瀬がショックを受けないはずがない。しかもその学校は、自分も中等部まで在籍していて、知り合いも大勢いる学校だ。
 この世が終わってしまったかのような絶望的な表情で、糸が切れた人形のごとくその場にへたり込んでしまった早瀬の肩を、二反田は慰めるように軽く叩いてやった。
 中等部にいたころはいつも複数の女子に囲まれ、華やかな空気を撒き散らしていた早瀬がこんな悄然としている姿を見たのは初めてで、同情と優越感が相半ばして彼の気分を高揚させる。
「残念だが本当の話だ。まあどこにでも噂好きの人間というのはいるものだからな。なにかのきっかけで広まってしまったのも仕方ない」
 その噂を峰華中央の校内に爆発的に広める元凶となったのは、ほかならぬ二反田自身なのだが、本人にその自覚はなかった。
 したり顔で「しかし君もどうせ身に覚えがないことなんだろうから、もっと毅然として、こんな噂話は否定してやらないと」などと得々と語って聞かせていると、すぐ近くの席に静かに座っていた眼鏡の男が、耳に染みるような深みのある声でふいに語りかけてくる。
「早瀬」
 呼ばれて早瀬がのろのろと顔を上げる。
 無言のまま、ガラス越しの目線がその肩に掛けられたままだった二反田の両手をちらりと示すと、呆けてしまって気づかないでいた早瀬はぎょっとしたように慌てて二反田の手を払い落とし、立ち上がってさささっと距離をとってしまった。
 乱暴に手を払われたことと、突然会話に割り込んできた眼鏡男に対する不快感とで、二反田はムッと顔をしかめ。そんな彼を顎先で示し、眼鏡の男は椅子に腰掛けたまま早瀬に尋ねた。
「もしかしてお前が入学式のときに話していた『厄介なやつ』というのは、こいつのことか?」
 なんの話をされているのか分からなかったのだろう。記憶を辿るように早瀬が一瞬黙り込み、ややして呆気にとられたように呟く。
「……おまえ、よく覚えていたな」
「一度聞いたことは忘れられない損な性質(たち)なんでな」
 そう告げてから、眼鏡越しの冴え冴えとした視線が二反田の顔に向けられた。「こいつ」呼ばわりされて不機嫌に拍車を掛けていた二反田は、長身を見せびらかすようにその場にふんぞり返ってその視線を受け止める。そもそもこの眼鏡男の妙に落ち着き払った、取り澄ました顔が、二反田にはどうも気に食わない。イライラしていると、向こうのほうから声をかけてきた。
「名前は?」
「――どうして僕から名乗らないといけない」
 いちいち偉そうな男だなと、二反田は憤慨した。自分以上に偉い人間などそうそういるはずがないのに、この男のこの不遜な態度は何事か。
 意地でもこちらからは名乗らないぞと固く心に誓っていると、あっさりと相手のほうから名前を告げてきた。
「土岐雅義だ」
 聞き覚えのあるその名に、二反田は眼を剥いた。
「土岐……? ひょっとして君がこの学校の文化祭実行委員長か!?」
「よく知っているな」
 それではこの男が早瀬の例の噂の相手だということか。二反田は改めてまじまじと相手の顔を眺めた。

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