恋は語らず -Chapter.3-

5

 眉をひそめながら振り返ると、視線をずっと下ろしたところに、二反田の腰に抱きつくようにして、小柄な少年が立っていた。きらきら輝く小鹿のような瞳に、二反田は一瞬意識を取られる。
「あれ、春日井じゃない」
 きょとんとした顔でその少年、行成も二反田を見上げた。まじまじとこちらを眺めていたかと思うと、ぱっと身を離し、愛くるしい微笑みを浮かべながら謝ってくる。
「ごめん。後ろから見たら知り合いと背が同じくらいだったから、間違えちゃった」
「いや……、気にしないでくれ」
 と、口では言いながらも二反田は内心、大いに不服だった。
 森羅万象の中でもっとも優れた存在は自分であると信じて疑っていない彼にとって、誰かに似ているといわれるのは、それだけで屈辱的なことだ。本音を言えば、「僕に似ている人間なんているわけがないだろう。君の目は節穴か!?」と叫び出したい。
 しかし日本型ピラミッド社会の頂点に君臨する紳士のひとりとして、こんな少年(といっても、二反田は知らないが行成は同い年だ)に食って掛かるのも大人気ないとぐっと衝動を堪えていると、そのとき急に行成が顔を輝かせた。昇降口の脇にある階段を降りてきた男に向かい、ぶんぶんと手を振って、弾んだ声で呼びかける。
「春日井ー! こっちこっち」
 呼ばれた男は行成に小さな会釈を返し、こちらに近づいてきた。スポーツバッグを肩から提げた、やたらと背の高い男だ。一見ゆったりした足取りでありながら、大きなストライドで一気に距離を詰めてくると、その男は三白眼気味の切れ長の目で、行成の傍らに立つ二反田をじろりと見下ろした。
 そう、春日井と呼ばれたその男は、わずかではあるが二反田よりも視線の位置が高かった。しかもその胸元に留められた学年章は、先程通りがかった生徒たちと同じく一年生のものである。
 まさか自分より年下で、自分より体格のいい男がこんなところにゴロゴロ転がっているとは思ってもおらず、二反田は激しい衝撃を受けてうろたえた。
 たかが身長、されど身長。いつも人を見下ろし続けてきた彼にとって、人に見下ろされることは耐えがたい屈辱だった。だがそんな彼にはお構いなしで、今度こそ行成は躊躇なく春日井の胸に飛び込んでいく。
「練習をのぞきに体育館に行ったら姿が見えないんだもん。探しちゃったじゃん。いったいどこに行ってたんだよ」
「すみません、六時間めの化学の実験が長引いて、なかなか抜けられなかったんです。もう練習は始まってましたか?」
「いまちょうどストレッチが終わったくらいかな。大塚も高梨も、春日井がなかなか来ないから心配してたよ」
 行成の言葉にひとつ頷いてから、春日井が「ところで」と続けた。二反田の面上を、刀のように鋭利なその眼差しが撫でていく。逞しい体の表面から青白い怒りの陽炎が立ち上る幻覚を見た気がして、訳も分からないまま、二反田は本能的に震え上がった。
「こちらの方は、行成先輩のお知り合いですか?」
 階段の上から、行成がさきほど二反田に抱きつく姿を目ざとく見ていた春日井が、もう立派に変声期を終えた低い低い声で聞くと、行成は何も気づいていないかのようにしごく能天気な顔で、ふるふると首を横に振った。
「んーん、全然知らない人。おまえと体格がちょっと似ていたから、間違えちゃった」
 言いながら、改めてまじまじと二反田を見上げる。
「あ、でも前から見たら全然似てないや。春日井はこんな腑抜けた顔、してないもんね」
 さりげなく付け加えられた一言に、フリーズしていた二反田はふと我に返る。
 ――なにやら今物凄く無邪気な口調で、さらっと失礼なことを言われたような気がするのだが、気のせいだろうか……。
そう思ったのだが、よく突き詰めて考える前にズバッと踏み込んだ質問をされて、一切の余裕が掻き消えた。
「それに見たところ、ウチの生徒じゃないみたいだし。なんでウチの制服着て、校内にいるの?」
 たやすく看破されて、二反田は動転した。「な、なんでこの学校の生徒でないと……っ」と口走ると、至極当然の口調で行成が答える。
「そりゃ分かるよ。この学校の中で春日井と同じくらいの身長の人なんて、早瀬くらいしかいないもん」
「早瀬!? 君は早瀬を知っているのか!」
「知ってるも何も……。なに、ひょっとして早瀬に会いに来たの?」
 深く頷いた二反田を見て、行成は「ふうん」と呟いた。わざわざ他校の制服まで調達して校内に潜り込んできた男を興味深げに見つめる眼差しが、楽しいことを予感したかのように、次第に輝きを増す。
「それじゃあ、おれが早瀬のところに連れて行ってあげようか」
「い、いいのかっ?」
「いいよー。あっちもおれがこんなに早く帰ってくるとは思わないだろうから、きっと油断してるだろうし。いま行ったら、ひょっとしたら何か面白い光景が見られるかも」
 ひとりうきうきとそんなことを呟いて、早速行成が前に立って歩き出す。よく分からないが何か思惑があるらしいと判断し、二反田はとにかく彼の後についていくことにした。
 行成の傍らには、特に何もいわないまま、春日井が寄り添うようにして歩いている。階段を二三段上がったところでふと気がついたように足を止め、行成は段差があってもまだ自分より高い位置にある後輩の顔を見上げた。
「春日井は別についてこなくてもいいよ。おれもまたあとで体育館に行くから、先に行っててくれれば」
 気を遣ってそう言った行成に対し、春日井は即座に首を横に振った。この男が、見知らぬ怪しげな男と行成をふたりきりにするはずがない。
「いえ、俺も美術室までいっしょに行きます」
「でも部活ますます遅れちゃうよ。いいの?」
「その分、あとで倍走りますから」
 なおも春日井が言い募ると、行成もそれ以上彼がついてくるのを止める気はないようで、ニコッと笑って後輩の大きな手をきゅっと握った。「じゃあ、行こっか」と言って、機嫌よくまた階段を上りだす。
 ラブラブのカップルよろしく手をつないで歩くふたりの後姿を、二反田は複雑な気分で眺めた。このふたりはやはり、男同士のカップルというやつなのだろうか。こういう輩が他にもたくさんいるとすれば、校内にはびこるそういった妙な風潮が、早瀬に関する不穏な噂の温床になったのかもしれないなと、ひそかに得心した。

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