恋は語らず -Chapter.3-

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 その噂を初めて耳にしたとき、私立峰華中央学園高等部二年生の二反田聖(にたんだ・きよし)は一顧だにせず鼻先で笑い飛ばしたものである。
「くだらない噂だな。どこから出てきたのか知らないが、どうせモテない不細工男が僻みで適当なことでも言ったんだろう。美形の哀しい宿命とはいえ、今回ばっかりは馬鹿な噂を流された早瀬に同情する。あの早瀬武士がホモになったなんてそんな愚にもつかない話、面白がって広めているやつも相当な馬鹿ものだな」
 呆れ果てたといわんばかりに両手を広げ、肩をすくめる。
 外人のように大袈裟な仕草だったが、眼も鼻も口も大きめで、少々バタ臭い顔立ちをした彼にはそんな仕草が似合わないでもない。一八〇センチを優に超える長身が誇る長い足を見せびらかすように組み替えて、彼は早起きして念入りに整えた長めの髪を、計算しながら慎重にかきあげた。セットが崩れてしまわないように。そして自分がいま最高にカッコよく周りから見えているように。
 ゆっくりと離した指先から、ぱらり……と一筋だけ、額に髪がこぼれおちる。
 決まった、と思った。
 ああ、この場に姿見があったならば、自分で自分の姿を拝みたかった。もちろん制服のポケットにはいつも小さな手鏡を隠しているが、いちいちそれを取り出して姿チェックをするのは野暮の骨頂。それでは神話のナルシスのようになってしまう。
 自分はナルシスにも劣らない美形だが、少々おつむの足りなかった彼よりも、知性のほうは格段に優れているのだ。
 容姿や才気、身長に至るまで、欠けるところのない満月のように完璧な自分。引き比べればそこらに転がっている有象無象の凡人たちが憐れに思えてならないほどだが、この学園にはかつてひとりだけ、彼と並び立つことを許された美形が存在していた。
 彼の宿命のライバルとでもいうべきその男、早瀬武士の面差しを二反田は懐かしく思い出す。
 いくらか名の知られた建築家の息子という早瀬は、幼稚舎で出会ってからほんの二年前まで、この峰華中央学園で二反田とも机を並べ、学業に恋にと、日々競い合っていた男である。
 出自こそ自分より数段ランクが落ちるものの、それ以外の要素、特にその見映えに関してはなかなかのものであると、二反田は内心でひそかに彼のことを認めていた。
 親しく語らったことこそほとんどなかったが、なにしろ彼らは宿命のライバルだったのだから、馴れ合いができなかったのも仕方がない。それでも常に互いが互いのことを心の奥底で意識し、切磋琢磨していたことを二反田はよく知っていた。
 ぱっとしない烏合の衆が寄り集まった学園内に、美しく孤高に咲き誇る二本の徒花。それが二反田と早瀬のふたりだったのだから。


 ――己の考えに二反田が陶然としている傍らでは、聞き及んできた話を頭から否定されたばかりか、話を伝え聞いてきた者までいっしょくたにして、バカバカと何度もけなされてしまったクラスメートの田原が、ひくひくとこめかみを引きつらせて憤りを堪えている。しかし二反田のお高く止まった態度は、別に今に始まったことではない。
 田原の父親が社長を勤める会社の、その親会社の、さらにその親会社の会長を祖父に、社長を父に持つ二反田の機嫌を損なわないことがこの学校に入学して以来の彼の至上命題で、まだ若いながら社会の歯車に組み込まれて生きることを強いられている悲しい彼は、自分の中の忍耐心を総動員してぎごちない笑顔をかろうじて保ちながら、精一杯穏やかな声で言い募った。
「いやでもこれはかなり信憑性のある話だと思うよ。部活の後輩の兄貴が星辰に通っていて、早瀬の隣のクラスにいるんだ。そいつが三学期の始業式の日に、体育館に集まった全校生徒の前で男に告白したやつの言葉をはっきりと聞いたって言うんだから」
 ふっと、あまりにも程度の低い同級生を憐れむように、二反田は口元だけで笑った。
「どんな話も人の口を介した途端に、その真実の姿を失うものだよ。君の部活の後輩の兄? 君はその人物と直接会って話をしたことでもあるのかい。人となりをわずかなりとも知った上での、今の発言なのかな? その兄とやらが、僻み根性に満ちたモテない不細工な男であるという可能性は限りなく高いと、僕には思えるのだが」
「……」
 とうとう田原は黙り込んでしまった。ひとこと言えばその十倍は言葉を返してくる男相手に無理に自分の主張を通そうとしたところで、不愉快な思いをさせられるだけということを彼は長年の経験から熟知しており、なんでしつこく言い募ってしまったのかと後悔している様がその表情からありありと窺える。
 しかし二反田は彼の顔などには1ミクログラムの興味もなく、知性に劣るクラスメートを諭すように、なおも滔々(とうとう)と語り続けた。
「早瀬は、女生徒たちからサトイモのごった煮状態と嘆かれるこの峰華中央学園において、唯一僕と並ぶ人気を獲得していた男だよ。そんな彼が、男同士の畜生道に落ちてしまうわけがない。まったくくだらない噂だ」
それにしても……、と彼はつくづく慨嘆した。
「わずかながら僕に及ばないと、真実に気づいてしまった彼が、敗北感とともにこの学園を去った今となっては、学内にはサトイモやジャガイモやカボチャばかり。並び立つ存在がどこにもいなくて、僕も挑戦者がいなくて不戦勝を続けるチャンピオンのように、誇らしくも物足りない気分だ。ああ、もう僕を奮い立たせてくれるようなライバルは二度と現れないのだろうか。早瀬がいたころはいくつかの恋の鞘当てで苦々しい思いもしたものだが、人はいなくなってしまってから初めてその得がたさが分かるというのは本当の話だね。こんな物足りなさには、僕はもううんざりだよ……」
 心底切なそうな表情で、二反田は絶望の吐息を吐き出した。周囲の冷め切った視線などには、気づくべくもない。
 まったく、頂点に立つ者というのは孤独なものだと、常々彼は思っていた。いずれ二反田は祖父や父の地位を受け継いで、世界的にも著名な大企業を率いていくことになるだろう。ならばこれから先の人生、自分は一生こんな虚無感と戦い続けねばならないのだろうか。
 それが特別な存在となるべくして生まれてきた自分の運命なのだとしても、並び立つ者がいない現状を哀しく思う気持ちがなくもない。
 かつて自分に新鮮な刺激を与え続けてくれた稀有な男の存在が懐かしくなって、二反田はもう一度切ないため息を吐き出した。

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