恋は語らず -Chapter.2-

20

 ――そしてその夜、早瀬は本当に一睡もすることができなかった。
 真っ暗な天井を睨みながら悶々とし続け、カーテンの端から白々とした朝日が漏れ入ってくるころには、目は水分を失ってじんじんするほど充血し、頭は考えすぎと寝不足でずきずきと痛んで、すっかり憔悴しきっていた。
「うわー、早瀬目がすごい真っ赤っか! どうしちゃったの!?」
 眼の下に濃いクマまでできたやつれ果てた早瀬の顔を見て、起き抜けの行成が驚いて聞いてきたが、昨夜なにがあったのかなんて早瀬のほうこそ誰かに教えてもらいたいくらいだ。
「……べつにどうもしない」
 言いながらよろよろと布団から抜け出し、一晩中寝返りを繰り返したため、あちこちよれてすっかりはだけてしまった浴衣を脱ぎ捨てて、着替えはじめる。
 考えてみればたかがキスだ。しかも唇を重ねただけのあの程度のキス、今まで何度となく女の子相手に繰り返してきたのに、同じその行為を土岐にされてしまったというだけで、眠ることもできないほど混乱してしまった自分がむしょうに悔しく、腹立たしい。
「おい、もう朝食が始まっているぞ。早く支度しろ」
 そこへ洗面に行っていた土岐が戻ってきた。出し抜けに目が合い、その拍子に昨夜の出来事がパッと頭に蘇って、早瀬は硬直する。みるみる赤くなっていくその顔を見て土岐が何か言う前に、同じく早瀬の顔色の変化に気づいた行成が、勢い込んで聞いてきた。
「なになに? なに赤くなってんの早瀬」
「なにって」
「ひょっとして土岐、ゆうべ早瀬を寝かせてやんなかったとか? 俺が寝てる横で、二人で何やってたんだよー」
「……っ」
 多分行成が今想像しているようなことはしていない。していないが、まったく何もなかったとも言い切れない。
 言葉の選択に迷い、あたふたしている早瀬に、これはいよいよ何かがあったようだと行成は確信を強めたようだ。好奇心に瞳を爛々と輝かせて詰め寄ってくる。
「え、うそ本当にやっちゃったの!? でもそのわりには布団がキレイ……」
「ヤルか――――!!!!」


 睡眠不足の上、朝っぱらから行成の下品かつ執拗な追求を受けてしまい、ぐったりしながら早瀬は学校が借り切ったバスに乗り込んだ。
 電車とタクシーを乗り継いで軽井沢までやってきた行きとは違い、帰りは美術部の面々も、バスケ部と学校まで同乗させてもらえることになっている。
 精も根も尽き果てたような早瀬と対照的に、厳しい練習を乗り切ったバスケ部員たちは、解放感に浸りながら浮かれ騒いでいた。合宿最終日の今日は、唯一遊びに当てられた日だ。冬休み最後の一日ということもあって、学校に帰るまでのわずかな時間を楽しみつくそうという、彼らの気合いの入りようは半端ではなかった。
 有名観光スポットは軒並み冬期休業中であるなか、午前中は梶間の引率でかろうじて開いていた美術館や博物館を二三まわり、午後は大型ショッピングモールに立ち寄って、一時間ばかりの自由時間を与えられた。
 バスが広大な駐車場に停まり、その扉が開いた瞬間、生徒たちは財布を片手に次々と弾丸のような勢いで目当てのショップに向かって駆け出して行く。しかしそんな彼らについていくエネルギーすら、今の早瀬には残されていなかった。
 なにしろどこに行こうとも、隣には当たり前のように土岐がいるのだ。その取り澄ました顔を見る度、昨日起こったあれこれを思い出してしまい、それがまた早瀬の動揺と混乱とを煽って、無駄に精神を疲弊させる。
(なにもなかったような顔しやがって……)
 特に面白くもなさそうに飄々と観光コースをこなしている土岐を、いっそ絞め殺してやりたい気持ちで早瀬は睨んだ。
 人を生殺し状態にしておいて、自分だけ平然としているとはいったいどういう了見だろうか。いっそ正面切って「昨日のあれはいったい何だったんだ」と聞いてしまえればいいのだが、あまりにもいつもと変わらない土岐の態度に質問するタイミングをつかめず、早瀬のストレスは溜まる一方だった。
 やたらと長く感じられた自由時間がようやく終わると、早瀬は残った力を振り絞って、ぞろぞろとバスに乗り込むバスケ部員の間をかき分け、土岐より一足早く車内に入った。そして奥の二人掛けのシートに座っている大塚の姿を見つけると、ちょうどいいとばかりに、空いていたその隣の席に腰を下ろす。
「なんだよ早瀬、土岐と一緒に座るんじゃないのか?」
 別にこんな合宿くらいでわざわざ座席表などを作っているわけではないが、バスケ部はバスケ部、美術部は美術部(と春日井)と、これまで自然に分かれていたので、突然横に座ってきた早瀬に大塚は驚いたようだった。そんな彼を、早瀬はぎろりと横目で睨みつける。
「別に誰がどこに座ろうが、構わねえだろ」
「そりゃまあそうだけどよ……」
 戸惑い顔の大塚を無視して、早瀬は倒した背もたれに深々と体をもたせ掛けると、あからさまに睡眠をとる体勢に入った。学校に帰りつくまで、何時間も土岐の隣に座っていて、また眠れないようでは本気で力尽きてしまう。それになにより、今は土岐の顔をあまり見ていたくなかった。
 早瀬に数分遅れてバスの中に乗り込んできた土岐は、すぐに大塚と並んで腰掛ける早瀬の姿を見つけたようだった。だが特に表情も変えず、別の空いている席を見つけると、さっさと腰を下ろしてしまう。
 そのあっさりした態度にわずかに失望を覚えながらも、もう何も考えまいと、早瀬は深く瞼を閉ざした。寝ようと思う必要もなく、深い穴に吸い込まれるように眠りに落ちていく。意識の片隅で、自分の体がぐらりと傾くのが分かった。続けて右肩を揺すられる。
「おい、俺によっかかるなよ」と抗議する声がかすかに聞こえた気がしたが、眠さには抗うのも面倒で無視した。しばらく抗議する声は続いたが、それもふいに途絶えた。
 ぼそぼそと、すぐ近くで誰かが話している気配がしたあと、もたれかかっていた体がすっと肩の下から抜かれた。体は斜めに傾いたままで、なのに倒れない。うなじのあたりをグッとつかむ熱があった。誰かの手が、力を失った早瀬の体を支えてくれているらしい。
 不思議に思ってうっすら目を開くと、早瀬の足をまたぎ越して移動する大塚の姿が見えた。そして空いた席に、誰かが代わりに腰を下ろす。支えになっていた手が外されて、早瀬の体は自然と、新たに隣に座った人物に向かってゆっくりと倒れ込んでいった。柔らかな布地の心地よい感触が頬に当たる。
 わずかに開いた視界の中に、見慣れた男の横顔があった。ぼんやり目を開けている早瀬に気づくと土岐は片手を伸ばし、瞼の薄い皮膚をそっと撫で下ろした。
 視界を閉ざされながら、「寝ろ」と、昨日の夜と同じ言葉を昨日より優しい声で囁かれ、夢見心地で早瀬は再び眠りに落ちていった。

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