恋は語らず -Chapter.2-

19

「……土岐」
「なんだ?」
 名前を読んでからそっと視線を向けると、いつの間にか本を下ろし、こちらをじっと見ていた土岐と目が合って、鼓動が跳ね上がった。「好きだ」と言いたい衝動が、胸の奥から湧き上がる。言葉が喉元までこみ上げてきて、早瀬に最後の決断を迫った。
「どうした」と、もう一度土岐が聞いてきた。だが、やはり早瀬にはどうしてもその一言を口に出すことができない。吐き出せない言葉が喉につまり、苦しくてくしゃりと顔を歪めた。
「……なんでもない」
 たった一言を告げることすらできない自分を情けなく思いながら、片手で覆い、土岐に背を向けるように寝返りを打った。そしてこれ以上の会話を拒むように、布団を口許まで引き寄せる。
 土岐がまだこちらを見ているのが気配で分かって、背を向けながらピリピリと神経を尖らせていると、ややして板敷きの間の灯かりを消して、立ち上がる音が聞こえた。
 寝る気になったのかと思った瞬間、突然背中側から肩に手を掛けられ、ぐいっと引き倒されて、横向きに寝ていた早瀬の体はごろりと仰向けに転がった。
「……っ!」
 驚いて上半身を起こそうとして、いつの間にか目と鼻の先の距離にあった土岐の顔に衝突しそうになり、早瀬は中途半端に起き上がった姿勢のまま硬直する。ほのかな明かりが陰影を作り出す顔は、普段より秀麗さが際立って見えた。
 茫然とその顔を眺めていると、刻んだように形のいい唇が静かに動いた。
「なにか、俺に言いたいことがあるんじゃないか?」
「……べつに」
「そうは思えないけどな」
 目を逸らさない土岐に、間近から自分の表情をつぶさに観察され、早瀬は言いようなく気まずい思いを味わう。いったいなんなんだと混乱していると、しばしの沈黙のあと、おもむろに土岐が掛けていた眼鏡を外した。闇にまぎれて、かすかな声が「あまり焦らすな」と囁いてくる。
 片手に眼鏡を持ったまま、土岐がゆっくりと顔を近づけてくるのを、早瀬は狼狽しながら眺めていた。
 まさか。まさか、そんな馬鹿なと思ううちに、そっと、静かに二人の唇が重なる。ほんのわずかな感触だけを残して離れたその唇は、しかしすぐまた戻ってきて、今度はしっとりと数秒間重ねられた。
 唇はほどなく解放されたが、たった今なにが起きたのか理解できずに、早瀬は唖然として土岐の顔を見た。感触をもう一度確かめるように、土岐の親指の先がそっと早瀬の唇をたどり、ポツリと「悪くないな」と呟く。
「な、な、な……っ」
 怒りなのか羞恥なのか混乱なのか、口をパクパクさせながら言葉もない早瀬を色素の薄い瞳がみつめ、そしてなんだか優しくさえ思える顔でふっと笑った。
「!?」
 頭に血が上り、熟れたトマトのように真っ赤になってしまった早瀬の額のあたりを覆うように土岐の手が伸びてきて、そっと後ろ側に体を押し倒される。
 今度はいったい何をされるのかと早瀬は全身を緊張させたが、土岐はすっと体を引くと、早瀬の顔を見下ろして「寝ろ」と一言だけ告げた。そのまま立ち上がって自分の布団に戻り、外した眼鏡と本とを枕元に置いて、中に潜り込んでしまう。
(ま、まさか、さっさと寝ちまうつもりか……?)
 早瀬は裏切られたような気分で、布団から唯一外に出ている土岐の横顔を食い入るように見つめた。
 いや、別に何事かを期待しているわけではないが、いきなり人の唇を奪っておいて、なんの説明もなく放ったらかしにするというのはあんまりではないのか。
 しかし動揺と困惑とで頭が煮えたぎり、眠気なんてはるか成層圏の彼方まで吹っ飛んでしまった早瀬をよそに、土岐は本当に眠ってしまったようだ。ややして行成の安らかな寝息の向こうから、ほんのわずか、規則的な寝息が聞こえてくる。
 土岐が眠ってしまったことを確信すると早瀬はまず愕然とし、次に困惑し、最後に激しい怒りに駆られた。
 最後に見た不可解な笑みと、告げられた言葉を思い出し、暴れ出したくなりながら思い切り心の中で絶叫する。
(寝られるわけがあるかーーーーーーーー!!!)

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