恋は語らず -Chapter.2-

18

「――ウノッ!」
 ふて寝の体勢をとるうちに、昼間の疲れもあっていつの間にかうとうとしていたらしい。いきなり耳に飛び込んできた鋭い叫びに、早瀬はビクリと感電したように目を覚ました。
 いったいなんだ!? と寝そべったままあたりを見回し、早瀬は二度驚いた。いつの間にか自分の布団をよけるようにして、部屋の中に人の輪ができている。
 輪の真ん中には色とりどりのカードが重ねられていて、行成や土岐に加え、バスケ部の二年生、大塚や主将の高梨がどっかりと腰を下ろし、学生の旅行には付き物のカードゲームに興じていた。行成に無理に引きずり込まれたのか、春日井までが不器用な手つきでカードを扱っている。全員風呂に入ったあとのようで、見慣れない浴衣姿だった。
 寝起きのはっきりしない頭で早瀬がぼんやりその様子を眺めていると、リーチが掛かった宣言とともに、大塚が勢いよく手持ちのカードを場に投げ捨てた。すぐに続けてカードを捨てながら、土岐が淡々と「俺もウノだ」と宣言する。「げっ」と大塚が顔をしかめた。
 そして次のターンで上がれなかった彼より先に最後の一枚を出し、土岐が一番に勝ち上がってしまった。ゲームに参加していた男たちが、口々に失意の呻き声を漏らす。
「ぐわー、また土岐がイチ抜けかよ! 今度こそ勝てると思ったのに!!」
 頭を抱えて大塚が悔しがり、高梨もまだたっぷり残っていた手持ちのカードをばっさりとその場に投げ捨て、缶入りウーロン茶をヤケになったようにがぶ飲みしながら、ほとほと呆れたようにこぼした。
「土岐よー、お前そんなに毎回勝ちっぱなしで、人生楽しいか? 勉強はいつもトップ、運動もできて、なにやったって器用にこなして、どうせ恋愛にだって悩んだことないんだろ」
 ひがみ混じりにからまれ、土岐は珍しく苦笑めいた笑みをその唇に刷いた。
「そうでもない。相手がシャイすぎて、今もちょっと攻めあぐねているところだ」
「なんだよ、アカネちゃんのことか? まあたしかにあの子、かなり照れ屋っぽいもんな」
 土岐の言葉に意外そうに目を瞬かせながら、でもそうか、まだ清いおつきあいなのかと高梨が好奇心いっぱいの顔になる。話がにわかに下卑た方向に向かいそうになったところで、矛先を逸らさせるように土岐が早瀬に声をかけてきた。
「起きたのか、早瀬。具合はどうだ?」
 早瀬に背中を向けていた大塚も、土岐に釣られたように振り返る。
「ん、なんだ。早瀬は体調が悪かったのか?」
「いや、別に……。もうなんともない」
 早瀬がよりによって風呂場で鼻血を出してしまったことはまだ誰も知らないようで、黙ってくれていた土岐に感謝しつつも、やはり気まずいやら恥ずかしいやらで顔を上げられないでいると、「なにモジモジしてんだよ、気持ちわりぃな」と笑いながら大塚が早瀬の首に太い腕を絡ませ、強引に輪の中に引きずり込んだ。すかさず高梨が場に捨てられていたカードを集め、真剣な顔で切り始める。
「総当たりでかかってるのに、さっきからずっと土岐の一人勝ちなんだ。お前も勝負に加われ。負けっぱなしでは帰らねえぞー」
 鼻息も荒く大塚が宣言し、何がなんだか分からないうちに早瀬も新たに加わった形でゲームが再開される。
 他の部屋にいたバスケ部員まで途中から続々と参戦、あるいは観戦にきて、狭い部屋の中でのゲームは異様な盛り上がりを見せた。大人数で馬鹿騒ぎしているうちに、自然とさきほどまでの気まずさが薄れ、早瀬は内心かなりホッとする。
 時計が午前0時を回り、梶間が「いい加減に寝ないか、おまえらっ」と怒鳴り込んできたところで、ようやく大ウノ大会はお開きになった。最後まで勝ち続けていた土岐の勝率は七割を超え、再戦を誓いながらバスケ部の面々が自室に引き上げていく。
「あー、楽しかった」
 最後に春日井を送り出した行成が、大きく伸びをして、敷きっぱなしだった早瀬の布団の上に寝転がった。そのまま中に入り込むのを見て、カードを片付けていた早瀬は眉をしかめる。
「おい、それは俺の布団だろうが」
「もうダメ、俺疲れた。布団敷いてる気力ない」
「そんなの知るか。おい、さっさと出ろよ」
「でれないー。ねむいー。おやすみー」
 布団から引きずり出そうとする早瀬の手から逃れ、上掛けにすっぽりとくるまると、行成は布団の奥深くに潜り込んでしまった。
「なんなんだよ、畜生」
 ブツブツ言いながら、しかたなく早瀬は新たな布団を引っ張り出す。去っていった連中が残していったゴミを片付けている土岐の分も一緒に敷いてやっていると、行成が布団の中からひょっこりと顔だけを出した。
「俺明るいところで寝るのは平気だけど、うるさいのはダメなんだ。気をつけてね。じゃあ、おやすみ」
 一方的に言って、またさっさと布団の中にもぐりこんでしまう。そしてしばらく寝るのに具合のいい体勢を探してゴソゴソしていたかと思うと、ほんの数瞬後にはくすー、くすーと気持ちいい寝息を立て始めた。
「……のび太かよ」
 あまりの寝つきのよさに早瀬が呆れていると、ゴミ捨てから戻ってきた土岐が、ごくごく潜めた声で茶化してきた。
「行成は睡眠欲と食欲に関して、恐ろしく本能に忠実だからな。性欲に忠実なお前とあわせれば、三大欲求がみごとに完成するな」
「ざっけんな、俺のどこがっ」
 ――――ドカッ!!
 失礼な言われように思わず大声で早瀬が怒鳴った瞬間、いきなり背中を蹴飛ばされた。今敷いたばかりの布団の上に、前のめりに勢いよく倒れ込む。
「なっ、なな、なんだ!?」
 びっくりして後ろを振り返ると、傍らの布団の端からにょっきりと伸びている細い足が目に映った。いったい何が起こったのかと目を白黒させているうちにその足が再び持ち上がって、ゲシゲシと早瀬を蹴りつけようとしてくる。慌てて早瀬は足が届かない範囲に逃れた。
「……うるさいよ。静かにしろって言っただろ」
 わずかにめくれた上掛けの陰から、普段のボーイソプラノからは想像もつかない、ドスのきいた低い声が漏れてくる。半開きの据わった目に睨みつけられ、早瀬が思わず口をつぐむと、ややして細っこい足はゆっくりと布団の中に戻っていった。続けて殺気を孕んでいた目が、ゆっくりと閉ざされる。
 豹変した友人に怯えながら早瀬が見守っていると、再びまぶたを閉ざしてからきっかり三秒後、またくすー、くすーと安らかな寝息が聞こえ始めた。
「――だから行成は睡眠欲と食欲に、恐ろしく忠実だと言っただろう」
 一部始終を黙って見ていた土岐が静かに言った。
「腹が減りすぎた時と、寝入りばなを起こされた時のこいつは、普段とはまったく別の人間だと思っていい。昼寝ならまだいいが、夜眠っているところを起こせば最悪、血を見るぞ。気をつけろ」
「お、お前が血を見たのか?」
「いや。ただ、ユキの家に泊まったとき、ユキの親父さんが暴行を受けているのを見たことはある」
 サラリと恐ろしいことを教え、土岐は立ち上がると、天井の電灯から下がった紐に手を伸ばした。
「俺はもうしばらく起きているつもりだが、お前はもう寝るか?」
「……そうだな。別にやることないし」
 二人きりで話していれば、どうしても先ほどの風呂場での醜態を思い出してしまう。それだけはごめんだと思って早瀬が頷くと、カチカチッと音がして、豆灯ひとつを残し部屋の灯りが消えた。荷物から文庫本を一冊取り出して、土岐が静かに窓辺に向かう。
 窓辺には客室の六畳間と繋がる形で、二畳ほどの幅の狭い板敷きの空間がある。そこに小さな机とセットで置かれた籐椅子に腰を下ろし、部屋の電灯とは別に点された柔らかなオレンジ色の光を頼りに、土岐は本のページを繰り始めた。
 行成が眠ってしまうと、狭い空間には、またにわかに沈黙が重くたれこめる。無性に気まずくて、早瀬は急いで新たに敷いた布団の中に潜り込むと固く目をつむり、とにかくもう一度寝ようとした。
 だが眠れない。さっきわずかに寝てしまったせいか、昼間運動もして疲れているはずなのに、寝ようと意識すればするほど目は冴えわたるばかりで、ちっとも眠気が戻ってきてくれない。
 無意識に何度も布団の中で寝返りを打っていると、押さえた声で土岐が「眠れないのか」と聞いてきた。
「……さっきちょっと寝たら、目が冴えた」
 仕方なくそう答えると、「そうか」とだけ言って、また本をめくり出す。ぱらり、ぱらりという音を聞きながら、細く、長い吐息を早瀬は押し出すように吐き出した。
 こんな風に静かで暗い場所は、さっきいた風呂場よりも居心地が悪い。互いのわずかな息づかいの音さえ伝わってしまいそうで、たまらない気持ちになる。
 眠れないまま布団にくるまっていると、止めようもなくいろいろな考えが頭をよぎった。さっき風呂場で、土岐は一体何をしようとしたのだろう。あの一瞬は、はっきりとキスされると思った。早瀬のあの失態さえなければ、間違いなく互いの唇は重なっていたはずだ。
 わけが分からない。ただのおふざけだったのか、それとももしかしたら土岐も、早瀬に対して何らかの感情を抱いているのか。わずかに期待する気持ちが生まれ、そしてすぐにアカネの存在を思い出して、そんなはずがないと打ち消した。
 くすぶる感情を自分の胸のうちに押し込めようとして……、早瀬はふと行成の言葉を思い出した。
『そうやって自分の感情を認めないから、土岐にだってまともに相手にされないんだぞ』
 認めたら……、少しは楽な気持ちになれるのだろうか? こんなわけのわからない焦燥からも、解放されるというのだろうか。

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