恋は語らず -Chapter.2-
17
焦りまくっている早瀬をよそに、傍らでは土岐が平然と体を洗っている。
濡れたタオルで体をぬぐっている気配や、洗面器を置く音までも鼓膜が勝手に拾い上げて、胸の鼓動は倍に跳ね上がり、頭にどんどんと血が上った。うつむけた視線のやり場がなく、早瀬は浴室の黒いタイルをじっと睨みつけた。
「おい、風邪を引くぞ」
いつまでも身を切るほど冷たい水をかぶったままでいる早瀬に、土岐が声を掛けてきた。聞こえないふりでシャワーを浴び続けていると、横から伸びてきた手が勝手に蛇口を閉めてしまう。そのままその手が裸の肩に触れてきて、早瀬はハッと落としていた視線を上げた。
「――冷えている。この真冬になにを馬鹿なことをしてるんだ」
肩に置かれた手が、ゆっくりと早瀬の腕をなぞり落ちた。
冷え切った肌に、土岐の掌の温もりは熱いくらいに感じられて、ぶるっと体が震える。
土岐の色の淡い瞳がすぐ間近にあった。いつもその目元を覆っているガラスも、今は外されている。光の加減によって焦げ茶にも琥珀にも見えるその瞳は、今はどこまでも透き通って底がないような錯覚さえ覚えた。
魅入られたように動きを止めた早瀬の額にかかった前髪を、土岐の指がすきあげる。間近にあったその顔がゆっくりと更に近づいてきて、徐々に徐々に、冷たいほど美しく見える瞳が早瀬の視界の中で大きくなる。あんなに水をかぶったのにまた急速に頭に血が上ってきて、早瀬は目眩を覚えた。
立ちこめる蒸気に思考が覆われていく。頭がクラクラして、なにも考えられない。唇に土岐の吐息が触れたような気がした瞬間、酒に酔ったようにグラリと視界がゆがみ、早瀬はとっさに体を引き、掌で顔を覆った。その指の隙間を伝い、赤いものが一筋こぼれ落ちる。
「おい……」
さすがに土岐が驚いた顔になった。顔を覆ったまま、なにが起こったのか自分でもよくわからず数秒固まり、掌に感じる熱くてぬめった感触に、ようやく早瀬は己の身に起こった異変を理解する。
「大丈夫か」と土岐が伸ばしてきた手を、恥ずかしさのあまりちょっと泣きそうになりながら、早瀬は必死で避けた。
「いい! 構うな、ただの鼻血だ!!」
「そうみたいだけどな。ああ仰向くな、血が逆流するぞ。指で鼻を圧迫して、タオルで冷やして安静にするんだ」
笑いもせず土岐が手を貸してくれようとしたが、己のあり得ない醜態に打ちのめされた早瀬はその手を拒み、濡れたタオルで鼻を押さえながら、プラスチックの椅子を蹴飛ばして勢いよく立ち上がった。
「わかったから! 先に部屋に戻ってる」
それだけ叫ぶと、顔を隠したまま早瀬は逃げるように脱衣所に戻った。頼むからついてこないでくれと願う早瀬の気持ちを察したのか、土岐が追いかけてくることはない。幸いにも血は程なく止まったものの、死ぬほど情けない気分で浴衣を着込んで早瀬が部屋に戻ると、畳の上に寝っ転がりながらテレビを見ていた行成が気配に気づいて振り返り、驚いた顔になった。
「もう戻ってきたの? 土岐は」
「……まだ風呂に入ってる」
悄然と答え、早瀬は自分の布団だけを先に敷くと、行成の視線を避けるようにその中にごそごそと潜り込んだ。明らかに異常なその様子に、くるまった布団をペシペシ叩きながら行成が聞いてくる。
「どうしたのさ。土岐に告白して玉砕でもした?」
とてもそれどころではない。恐らく行成の想像を絶するだろう間抜けな事態を逐一説明できるはずもなく、早瀬は貝のように口を閉ざしながら、よりいっそう布団の奥深くに潜り込んだ。旅行前の賭けのことも気になるのか、そんな早瀬に行成が同じ質問を繰り返してくる。
「それとも、また今回も何も言わないで逃げ帰ってきたの? せっかく俺がお膳立てしてあげたのにー」
……告白場所を風呂場にセッティングするやつがあるかと思いながら、ただひたすら早瀬が沈黙を守っていると、なおもしばらく「ねーねー」と言いながら布団をペシペシ叩いた末、ようやくあきらめたのか行成が布団から離れていく気配がした。しばらくごそごそした後、「お風呂行ってくる」と言い残し、部屋を出て行く。
一人にされても、早瀬は布団の中から出ることができなかった。風呂場での失態が何度も何度も脳裏を駆け巡り、わめきだしたい気分になる。羞恥に悶々としながら、一方で早瀬は先ほどの思わせぶりな土岐の態度に困惑を抱いてもいた。あの時、土岐はいったい何をしようとしたんだろう。額を合わせて熱でも測ろうとしたのか、それとも……。
あの瞬間を思い出しながら、指先でそっと唇をなぞる。
――キスされるかと思った。
そんなことがあるわけないのに、唇にかかった土岐の吐息の感触はやけにリアルに残っていて、ファーストキスなんて年齢が一ケタのときには済ませていたにもかかわらず、なんでこんなにと思うほど鼓動が高まった。
何が何だか分からない。土岐が何を考えているかも、自分の先ほどの醜態も、何もかも忘れたくて、早瀬はぎゅっと固く瞼を閉ざした。
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