恋は語らず -Chapter.2-
12
東京駅を出発してから一時間あまりで、新幹線は軽井沢に到着した。白い外壁と濃いグレイの屋根の対比が眼にも鮮やかな
瀟洒
な駅舎を出、正月を迎えた華やぎをまだ色濃く残しているショッピング街を眺めながら、駅前に停まっていたタクシーに乗り込む。
十分ほど車を走らせると、葉をすっかり落とした木立の合間に、合宿所の姿が見えてきた。
建物の向こうには雪化粧をした浅間山がそびえ、その雄大な姿に感激した行成が窓から身を乗り出さんばかりにして、大きな歓声を上げた。冷たい空気が車内に流れ込み、ベスト一枚しか着ていない運転手が、凍えてぶるぶると体を震わせる。
車が建物に近づいていくと、玄関前でこちらに向かって大きく手を振っている大塚の姿が見えた。だいたいの到着時刻は知らせておいたので、そろそろ三人が着く頃合いかと、わざわざ待っていてくれたものらしい。
「お疲れー! いやー、待っていたよ、美術部諸君」
料金を払ってタクシーを降りると、大塚がすぐに駆け寄ってきた。惜しげもなく笑顔を振りまきながら出迎えてくれる大塚に、早瀬はちょっと面食らう。
美術部の合宿参加が決まったときのバスケ部のくやしがりようが凄まじかっただけに、まさか歓迎してもらえるとは思ってもみなかった。相当嫌がられるだろうと覚悟しながらここに来たというのに、いったい何があったというのだろう。
「なんだよ、そんなに待っててくれたのかよ」
いぶかしく思ったものの、歓迎されれば悪い気はしない。差し伸べてくる大塚の手に遠慮なく自分のボストンバックを渡しながら、早瀬は合宿所の扉をくぐった。赤いカーペットが敷き詰められた玄関ロビーは、見た目はそこらの旅館とさして変わらないが、ごてごてした装飾や民芸品がない分すっきりした印象があった。
玄関を上がったすぐそこに応接セットがあって、小さな机の上には今日の新聞が数紙置かれている。その脇にはジュースの自販機があり、その奥に各客室や浴室に向かうらしい通路が伸びていた。通路の一番手前にある扉の向こうは、どうやら食堂らしい。
「そりゃもう待ち焦がれてたぜ。本当に明るいうちに到着してくれて良かった。じゃ、今日の食事当番よろしく!」
「……は?」
肩を叩かれながら当たり前のように付け加えられた一言に、美術部トリオの動きがぴたりと止まる。
「当たり前だろ、働かざるもの食うべからず。合宿への参加を特例で認めてやったんだから、メシを作るくらい当然だ。合宿が始まってからこっち、ずっとバスケ部員で食事当番を持ち回りしてて、いい加減うんざりでよ。お前らが来てくれてほんっとに嬉しいよ」
よよ、と泣き真似までしながら、「あ、全部で二十八人分な」と恐ろしいことを付け加えられ、お世辞にも家事が得意ではない早瀬はたじろぐ。早瀬の家では家事全般母親に頼りきりで、母親に急用ができたなどでごくたまに夕食がないときは、外で食べてきたり買ってきたりすることができなければ、父親ともども潔く断食を選ぶほどだ。
そんな早瀬が今までまともに作ったことのある料理は、ひとつしかない。大塚の言い分は分からないでもないしと、腹をくくって申し出た。
「わかった。じゃあ、カレーを……」
「言っておくがカレーと焼肉はパスだからな。五日間の合宿のうち二日がカレーで、もう二日は焼肉だった」
みなまで言う隙もなかった。どうやら男しかいない星辰高校バスケ部の面々の中に、料理が得意な部員はいないらしい。
「――俺に、それ以外の料理を作れと?」
カレーなら、小学校のときの
飯盒炊爨
と、中学の時の家庭科の時間に合計二回作ったことがある。だからなんとなく作り方も覚えている。しかしそれ以外の料理などまったく思いつかず、黙り込んでしまった早瀬の後ろ側から、落ち着き払って土岐が言った。
「カレーも焼肉も駄目というなら、鍋だな」
「えー、鍋!? あんなの材料切って、煮るだけじゃんかよ!」
「そうだ。だから誰が作っても失敗がない上に美味い。世界に誇る素晴らしい日本料理だ」
「もっと凝った料理作ってくれよー!! 茶碗蒸しとか、天ぷらとか、パエリアとか」
ごねる大塚を、土岐が冷たい目で見やる。
「そんなに言うなら作ってやってもいいが、出来は保障しないぞ。言っておくがユキは洗濯機に洗剤を入れて米を洗い出すようなヤツだし、早瀬も米を水抜きで炊いたことのある大馬鹿だ」
かつて何気なく話した小学校のころの失敗話をこんなところで持ち出され、早瀬は顔を赤くして「今はそんなことしねえよ!」と反論したが、土岐も大塚も聞こうとはしなかった。
「それは救いようがないな……」
「分かっただろう。命が惜しかったら鍋で我慢しておけ」
淡々と諭されても、まだ豪華な食事に未練があるらしい大塚は、しつこくごねてくる。
「こいつらは料理ができなくっても、土岐ならなにか美味いもの作れるだろ。合宿最後の夜くらい、少しはいいもんが食いてえよー」
「知識では、それなりに料理の作り方を知っている」
「だからお前が……」
「ただし、実践したことがあるかどうかは別問題だ。材料や作り方は記憶しているから、この場に必要な道具と人数分の材料をすべてそろえてこい。万端に用意できたら、教科書通りの料理を再現してやる。仮にお前がパエリアを食べたいのなら、最低でもまずパエジェーラ(パエリア用の平鍋)と米とブイヨンとムール貝とオマールエビとオリーブとサフランとピカーダとケッパーと……」
「分かった! もういい、俺が悪かった。鍋で我慢するからっ」
聞いたこともないような食材を立て板に水の如く並べ立てられ、たまらず大塚は白旗を掲げて降参する。そしてたちまち憮然とした顔になると、手に持っていた早瀬の荷物をその場にポイッと放り出し、右手に伸びる通路を指差した。
「お前らの部屋はこの廊下の突き当たりの右側で、キッチンはすぐそこの扉を入ったところだ。食材はストックが色々あるはずだから、適当にやってくれ。食堂はキッチンの隣の部屋で、食事はそこで取るから、食器とかも全部並べとけよ。で、用意ができたら体育館に呼びに来い。どんなに遅くても七時までな。体育館へは、この建物の裏の道を案内板に沿って五分も歩けば着くから」
先ほどまでの愛想のよさが嘘のような素っ気なさで矢継ぎ早にそれだけ言うと、大塚は玄関へと向かう。
「なんだよ、俺のカバン、部屋まで運んでくれるんじゃないのかよ!」
「はっ、メシもろくに作れないようなやつの荷物を誰が」
責める早瀬に、自分のことは棚に上げて憎々しげに吐き捨てると、大塚はさっさと体育館に帰っていってしまった。その背中を眺め、行成がポツリと言う。
「土岐って、わりとマメに料理するほうじゃなかったっけ? おばさんが夜中まで仕事をしてるから、小さい頃からしょっちゅう家族のご飯を作ってたよね」
はじめて知る事実に、なに!? と眼を剥いた早瀬にはかまわず、荷物を手に部屋に向かいながら、そしらぬ顔で土岐が言い捨てた。
「嘘も方便だ。大の男三十人近くに食わせるメシを、たった一人で作れるか」
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