恋は語らず -Chapter.2-
10
美術室を飛び出して行った行成は、結局その後下校放送が鳴り始めても帰ってはこなかった。
しかたなくひとり帰り支度をはじめ、暖房のスイッチを切りながら、早瀬は教室に残された二人分の荷物を眺めて頭を悩ませる。
このまま帰ってしまおうか、それとも二人が戻ってくるまで待っていようかと決めかねていると、外の寒さが窓を伝ってじわりと染み込んできた頃、委員会を終えた土岐が戻ってきた。部屋を一通り見回し、早瀬の姿しか見当たらないことを確認して、問いかけてくる。
「ユキはどうしたんだ?」
「一時間くらい前に出てった」
「出て行った? どこに」
「さあ……」
もごもごと答えながらも、なんとなく気まずくて土岐と視線を合わせることができず、早瀬が意味もなく壁に掛けられた卒業生の絵などに目線をさ迷わせていると、手早く自分の荷物を片付けた土岐が、行成の荷物も抱えながら教室の外に出るように促してきた。
「どうせ春日井のところにでも行ってるんだろう。帰る途中に体育館に寄って、ユキを拾って行くぞ」
「え?」
正直今は行成と会いたくなくて露骨に嫌な顔をする早瀬に、さっさと美術室の鍵を閉め、廊下を歩き出しながら土岐が首を傾げる。
「なんだ、喧嘩でもしたのか?」
「そういうわけじゃ……」
言いながらも、早瀬は口ごもってしまう。土岐が不審そうに自分の横顔を見ているのが分かり、額にじわりと嫌な汗が滲み出した。売り言葉に買い言葉だった先ほどの行成との馬鹿らしい言い合いが頭をぐるぐると回り、無性に土岐を避けたい気分になる。
そういえば、さっきはじめて早瀬は人の前で土岐への思いを口にしてしまったのだった。あのときは頭に血が上っていて、そんなことにすら気づかなかったが、万一あの言い合いを土岐に聞かれていたらと思うとゾッとする。
土岐に対する思いは気の迷いだとずっと思い込もうとしてきたのに、もうそれも無理なようだ。ひと気が去った静かな廊下に響く足音が互いの間に落ちた沈黙を際立たせるようで、早瀬が居たたまれない気分を味わっていると、土岐がようやく視線を早瀬から外し、あやすような口調で言ってきた。
「なにがあったか知らないが、とにかくユキの荷物をこのままにしておけないだろう。体育館を覗いても見つからなかったら、このままこの荷物は俺がユキの家まで持って行くから、とりあえず体育館までは付き合ってくれ」
それ以上ごねるうまい理由も思いつかず、渋々と早瀬は土岐とともに行成を探して体育館に向かった。
正面玄関から自転車置き場になっている校舎脇に出ると、校庭の西側に独立して建っている体育館の姿が現れる。建物の窓から漏れ出る温かそうな黄色い明かりが、まだ館内に人が残っていることを教えていた。だが体育館に近づくにつれ、その光に照らされて浮かび上がる異様な光景が見えてきて、早瀬は眉をしかめる。
「なんだありゃ?」
まるで蜜に群がる蟻のように体育館の扉に取りつき、ジャージ姿の大柄な男たちがこちらに背を向けてしゃがみこんでいる。
わずかに開かれた扉の隙間に顔を突っ込むようにして館内の様子を窺いながら、声を潜めて何事かささやき合っている彼らの黒いジャージの背中には、『星辰高校男子籠球部』の筆文字がプリントされていた。
よほど密談に集中しているのか、早瀬たちが間近まで近づいても誰一人こちらに気づかない。とりあえず館内の様子を見るのに邪魔なので、早瀬は手近な一人の肩を無造作に叩いて声をかけた。
「おい、何してんだよ」
「ひぃっ!!」
その瞬間、そこにいた全員が短い悲鳴を漏らして飛び上がり、目を剥いてこちらを振り返った。極端な反応に驚いて、早瀬は思わず二三歩後退ってしまう。
「な、何だよっ」
内心かなり狼狽しながらも虚勢を張って尋ねると、中にいた顔見知りの部員が声を潜めながら、必死の形相で飛びかかってきた。
「早瀬っ! この野郎ふざけんな、驚くじゃねえか!!」
額に青筋を立てながら早瀬のネクタイを締め上げてきたのは、クラスメートで、バスケ部の副部長でもある大塚だった。よほど肝を冷やしたのか、ゴリラのようにごつい男が、目にうっすらと涙まで浮かべている。
「こっちが驚いたわ! 雁首そろえて何やってんだよ、バスケ部は」
「なに言ってんだ! そもそもお前ら美術部が無茶言ってきたから、俺らがこんな恐ろしい目にあってんじゃねぇかよ!」
怒声とともに思い切りよくネクタイを引き絞られ、早瀬は「ぐえっ」と息を詰まらせた。バリバリの運動部員に容赦ない力で首を締め上げられて、金魚のように口をパクパク喘がせながら悶絶する。そんな友を助けようともせず、土岐が大塚に問い掛けた。
「俺たちがどんな無茶を言ったって?」
「とぼけんな! よりによって行成を使うなんてやり方が汚ねえぞ!!」
「ユキ? なんだ、やっぱりここに来ていたのか」
で、いったい俺たちが何にユキを使ったって? と土岐がさらに訊きかけたとき、体育館の扉が内側から引き開けられた。ガラリというその音に弾かれたように、その場にいたバスケ部員たちがいっせいにハッと息を呑んで硬直する。大塚も顔を蒼褪めさせて早瀬の首から手を離すと、こわごわ扉のほうを振り返った。
「と、土岐、てめえ少しは助けようとしろよ……」
ようやく解放された早瀬はゼハゼハ喘ぎながら友達甲斐のない男に抗議しようとしたが、開かれた扉の向こうからよろよろと人影が現れたのに気づいて口をつぐむ。血相を変えたバスケ部員たちが、地響きを立てて傍らを駆け抜けていった。
「部長!!」
「大丈夫ですか、先生! しっかりして下さい!!」
部員たちに取り囲まれ、すっかり憔悴した面持ちでその場にへたり込んだのは、バスケ部の顧問である梶間(かじま)と部長を務める二年生の高梨(たかなし)だった。ふたりは地面に両手をつくと、深々と
頭
を垂れた。
「すまない、みんな。結局美術部の要求に抗いきれなかった。不甲斐ない俺たちを許してくれ……っ」
そう詫びて男泣きに泣くふたりに、「なにを言うんですかー! 後輩を押さえることもできない俺たちだって同罪ですっ」と叫んで、部員たちが次々に取りすがっていく。
「……美術部の要求?」
眼前で展開される暑苦しい光景に心底引いてしまいつつ、どうして自分たちの話題がいまこの場で出てくるのか分からなくて、早瀬は首をひねった。だがその疑問も、続いて体育館の中から出てきた二人の姿によって解消される。
「ユキ」
体育館の戸口に向かって呼びかけられた土岐の声に、早瀬が「え?」と振り向くと、よく見知った顔の友人が、緊迫した場に似合わない和やかな笑みを浮かべ、ひょっこり顔を出すところだった。
「あ、早瀬。合宿決まったよー」
朗らかに言い、こちらに向かって手を振っている行成の背後から、扉のかまちに頭をこすりつけそうなほど背の高い男が姿を現す。バスケ部一の長身を誇る春日井だった。口もとを固く引き結び、鋭い眼差しであたりを
睥睨
しているこの男がまだ高校一年生だといっても、ほとんどの人間は信じないだろう。
体育館の明かりを背負って浮かび上がる威圧的なそのシルエットに、バスケ部員たちがそろって震え上がる。そんな彼らと対照的に呑気な様子で、上機嫌の行成が春日井の手を引きながら近づいてきた。
「春日井がバスケ部の人たちを説得してくれたんだ。おかげで梶間先生も部長も、快く美術部との合同合宿を許可してくれたよ」
ね、と言いながら首をほとんど垂直にして後輩を見上げると、行成にだけ見せる優しい顔つきで春日井が頷いてみせる。
すっかりふたりだけの世界を築いてしまっている彼らを遠巻きにしながら、梶間をはじめとしたバスケ部の面々は怯えきった様子で身を震わせていた。
いったいどんな説得をしたんだと、閉ざされた空間で春日井と向かい合う梶間たちの姿を想像し、早瀬は空恐ろしい気持ちになる。まあおそらくは、この行成命の後輩が年に見合わない迫力を全開にして、バスケ部の首脳陣に脅しをかけたのだろうが……。
大会前の大事な合宿によけいなものを同行させたいわけがないから、バスケ部もそれなりの抵抗を示したのだろうが、それもあえなく潰えてしまったものらしい。仮にも教師や先輩に対してここまで心的に優位に立っているとは、改めて恐るべき一年生である。
「合宿所には温泉も引いてるんだって。楽しみだなぁ。春日井、卓球台があったら一緒にピンポンしようね」
そしてそんな男を意のままに操る、ある意味もっとも恐ろしい存在と言えるかもしれない行成は、春日井の腕に自分の腕を絡ませながら、楽しい合宿を思い描いてうきうきと計画を語っていた。
それは合宿じゃなくてただの旅行だろうと早瀬が内心突っ込んでいると、まだなんの話を聞かされていない土岐が、行成に荷物を渡してやりながら「合宿っていったい何のことだ?」と、当然の質問をする。
「ふふふー、冬休みのお楽しみ。土岐ももちろん参加してよね」
心底楽しそうにそう言うと、行成は早瀬の耳許に口を寄せ、しっかりと念を押してきた。
「早瀬も! 約束はちゃんと守ってよ。楽しみにしてるから」
Copyright(c) 2009 SukumoAtsumi All rights reserved.