恋は語らず -Chapter.2-

8

 誰か来たのかと顔を上げた早瀬は、そこに見つけた思いがけない姿に驚いて目を見開く。
「土岐?」
 扉に手をかけ、そこに立っていた均整の取れたすらりとした長身は、今日も八角学園に行っていたはずの土岐だった。怜悧なたたずまいもいつも通りだが、外気との気温差で少し曇ってしまった眼鏡が気にかかるようで、軽く眉をひそめている。
「どうしたの、八角に行ったんじゃなかったの?」
 先ほど彼の帰る姿を見たばかりだった行成も驚いたように聞くと、折りたたんだ布を上着のポケットから取り出し、外した眼鏡をふきながら土岐がさりげなく答える。
「行くには行ったんだが、市村さんがこれから生徒会の会議があると言うんで、帰ってきた」
 そう手短に説明して拭き終わった眼鏡をかけ、さっさと室内に入ってきて、手に持っていたカバンを早瀬が占領している作業台の端に下ろす。荷物が置かれる音とともに、外から持ち込まれたばかりの冷えた空気がすっと早瀬の肌を撫でていった。
 土岐の姿を見つけた瞬間、今日は気が変わって途中で引き返してきたのかと淡い期待を抱いてしまった早瀬は、何だそんな理由かと頭に水を掛けられたような気分になる。
 たしかにこの星辰高校からアカネのいる八角学園までは、最寄の私鉄でたった二駅分の距離で、すぐに電車が来さえすれば、ものの一時間もかからず往復することができる。
 それでもこれほど早く戻ってきたということは、土岐が八角学園にいた時間はほんの十数分程度のことだろう。そんなわずかな時間さえ惜しむように、土岐はアカネに会いに行ったのだ。そう考えると、また早瀬の胸はじくじくと痛んだ。
 どんよりと落ち込む早瀬の向こうで、せっかく準備万端整えたデッサンに取りかかろうともせず、行成が首をしきりにひねっている。納得いかないような顔でしばらく上を向き下を向きしていたかと思うと、いきなりくるっと土岐のほうを向いてぴたりと視線を合わせた。
「なんか最近熱心に八角に通いつめているけどさ、結局土岐はアカネちゃんと付き合うことにしたの?」
 ドクンッと、自分でもはっきり分かるほど勢いよく、早瀬の心臓が飛び跳ねた。直球そのものな行成の質問に、思わず向かい合う二人の姿を凝視してしまう。
 土岐とアカネとの付き合いは、校内ではすでに暗黙の了解になりかけてはいるものの、直接土岐にこの質問をぶつけた人間はまだいない。一体なんと答えるのかと早瀬が激しい動悸に耐えている前で、さして気負った様子もなく土岐は言い放った。
「そうだな。できれば長い付き合いにしたいと思っている」
 がくんと、足元の地面が丸ごと消え失せてしまった気がした。
 ――決定的だ。
 ためらいもしなかった土岐の言葉に、早瀬はいっそ笑いたくなる。
 知っている限り土岐はけっして遊び人ではないし、早瀬のように複数の女の子と手広く付き合ったりもしないが、かといって付き合っている彼女に熱を上げている様子も見たことがない。
 いつも変わらずに節度を保った、一見冷め切った土岐の態度に、互いの感情の温度がまったく違うことに気づき、いつしか女のほうから離れてしまうのが常だった。
 高校ではじめて知り合ったときから、早瀬も土岐のその時々の彼女を何人か見ているが、その誰とも三ヶ月と続いてはいないはずだ。なのに、アカネとはこれまでのような付き合い方をするつもりがないと、今から決めているのか。
(そんなに、好きなのか……)
 ぎゅっと目をつぶって、早瀬は今受けた衝撃をやり過ごそうとした。
 この数日で、一体何回こんな思いを味わったことだろう。同性の友人相手にこんな切ない思いを味わっている自分がとてつもない間抜けに思えて、どうしようもなく笑えてくる。
 いっぽう思わせぶりこの上ない土岐の答えに、行成は「あちゃ〜」と額を押さえ、ちらりと早瀬のほうを見た。そして一目で死ぬほど落ち込んでいると分かるその顔を見て、もう一度「あちゃ〜…」と繰り返す。
「なにが『あちゃ〜』だ」
「んー、ていうか、ちょっと意外と言うか。土岐の趣味からして、俺はてっきり……」
 幼馴染として長年ともに過ごしてきた経験がなにか違和感を訴えるのか、納得いかないと言わんばかりに首を傾げる行成に、土岐はほんのわずか笑みを浮かべてみせた。そして呟くように言う。
「――長い目で見ているだけさ。色々とな」
 含みのあるその表情に、行成は軽く眉と肩をそびやかした。
「ふーん。よくわかんないけど、なんにしても巻き込まれる人たちは可哀想だよねー。ご愁傷様さま」
 言いながらなぜか早瀬に向かい、両手を合わせて「ナムナム」と拝む。しかしうつろな早瀬の視界にその姿は映っても、なにをされているのかまで認識することはできず、ただ放心するままにその日も暮れていくのだった……。

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