恋は語らず -Chapter.2-
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翌日の校内は案の定、どこに行っても早瀬の不能疑惑と、土岐に新しくできたらしい彼女の話とで持ちきりだった。
イ○ポを理由に恋人に振られ、しかもその同じ日に親友には可愛らしい彼女ができたらしい。まさに男の面目丸つぶれということで、早瀬はありがたくもない男たちの同情を一身に集めることになり、一日中ふてくされながら過ごした。最近早瀬が恋人たちに振られまくっていたのも、さてはイ○ポが原因だったのかと、みんなすっかり納得してしまっている。
己の不能疑惑については事実無根もはなはだしく、朝のうちは早瀬も必死に噂を否定して回っていたのだが、ムキになって言い募れば言い募るほど面白がられてしまうだけということが分かってからは、もうなにを言われようが聞かない振りをしているしかなかった。それに正直、今は自分の噂よりも土岐のことの方がよほど気にかかる。
ようやくその日最後の授業が終わり、下校前のショート・ホームルームも終わって、部活にバイトにと思い思いに散らばっていく生徒たちの隙間から、早瀬はぼんやりと土岐の姿を見ていた。
教室内の清掃が始まろうとする慌しい喧騒の中で、先ほどから土岐は携帯を片手になにか話している。一応普段から持ってはいても、実際に携帯を使う姿を見ることはあまりない土岐にしては珍しい光景が気になってしまって、気がつくとチラチラ視線を送ってしまう。
色んな音が入り混じった中でも、土岐の発音の明瞭な声は不思議とすんなり耳に入り込んでくる。一体誰と話しているんだろうと思い、何となく耳を澄ませている内に、会話の中で土岐が相手の名を「市村さん」と呼んでいるのが分かって、早瀬は反射的に身を強張らせた。
アカネと連絡を取り合っているのかと、かたずを呑んで土岐の姿を凝視するうちに、短いやり取りを終え、「それじゃ、これから行くので」と告げて土岐が通話を切る。携帯をしまい、なめらかな仕草でコートを羽織ると、うつろな目をしている早瀬に近づいてきた。
「どうした、部活に行かないのか」
「……お前こそ」
コートを着込んだ上、手袋まではめ出している男の姿を見ながら、ともすればかすれそうになる声を何とかコントロールして早瀬は聞き返したが、わざわざ聞かずとも土岐が今日、部活に参加するつもりがないのだということはすぐ分かった。同じ校内にある美術室に向かうのに、わざわざコートなどを着る必要はない。
「お前は、今日はもう帰るのか?」
それでもあえてその質問を口にした早瀬に、土岐の返答は冷たいものだった。
「ああ、ちょっと八角の高等部に行ってくる」
「ふうん」
先ほど漏れ聞いた電話の内容からうすうす予想はついていたものの、アカネの学校に昨日の今日で行ってくるという土岐の言葉に、隠しようなく早瀬の肩が沈む。
やはり彼女と付き合うことにしたのかと、胸に一陣の寒風が吹いた。それでもなけなしのプライドをかき集め、必死で何でもない風を装って早瀬も帰り支度を始めていると、その横顔を観察するように眺めていた土岐が、ふいに思いがけないことを聞いてきた。
「なんならお前も一緒についてくるか?」
「……っ」
意図の分からない土岐の誘いかけに、早瀬は眉を寄せた。新しくできた彼女を改めて紹介してくれるとでも言うのだろうか? だとしたら、とんでもなくよけいなお世話だった。
胸焼けしたような、どうしようもなく不快な気持ちを持て余しながら、手当たり次第テキスト類をひっつかんではカバンの中に入れ、その上に空の弁当箱を放り込み、最後に筆記用具を突っ込む。親のかたきのような激しさでカバンの金具をとめながら、答えた声はきしるようだった。
「俺がついて行ってどうすんだよ」
他意はないのかもしれないが、アカネと仲良く語らう土岐の姿など、わざわざこの目で見たいわけがなかった。憤りをこらえている早瀬の前で、土岐は「それもそうだな」とさらりと言い教室の戸口を潜る。
「それじゃ、悪いがユキにも今日は部活を休むと伝えておいてくれ」
「……ああ」
そのまま土岐が行ってしまうと、沸騰しかけていた早瀬の頭も、すぐにすとんと温度を下げた。逆に猛烈な脱力感に襲われ、しばらく身動きできずにその場に突っ立っていると、掃除当番のクラスメートに「早瀬?」と肩を叩かれる。
「どうした、調子でも悪いのか」
「べつに何でもねーよ」
肩に置いた手を邪険に振り払われても、そのクラスメートは怒らなかった。しみじみと同情したような顔で、ほうき片手に慈愛深い言葉をかけてくる。
「なあ早瀬、落ち込む必要なんかないぞ。まだ若いんだから、一時的に調子が悪くなってもいつか必ず蘇る。イ○ポは決して不治の病じゃないんだ。あまりくよくよするなよ」
「……」
秀麗な額にピキピキと青筋が浮かび上がった。このままここにいては暴れ狂ってしまいそうだという危機感に駆られ、「復活を祈ってるぞー!」と叫ぶクラスメートを置き去りに、荷物を引っつかんで教室を飛び出す。しかし特に行きたい場所も思いつかず、惰性で美術室に向かいながら、やけにすかすかする胸の奥で、早瀬は「良かったじゃないか」と強いて自分を励まそうとした。
土岐に彼女ができたなら、自分の厄介な思いが受け入れられる可能性は万に一つもなくなったわけだ。
下手なことをしでかす前にこうなってくれてよかったと、早瀬は必死で自分に言い聞かせた。どうせ望みなんて欠片もない思いだった。好きだとか、言い出したりしなくてよかった。血迷って告白したりしなくて、本当によかった。
自分もまたこれまでのように、女の子たちと気ままに遊ぶ生活に戻ればいい。今まではそうしてきて、それなりに楽しむこともできた。これからもそうするのが、一番いいんだと自分を慰めながらも、胸を締めつける寂しさは殺しようもない。
ほとんどはじめて感じる失恋の味の苦さを、早瀬は奥歯で噛み締めた。
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