恋は語らず -Chapter.2-

5

「え?」
 それを見て自分の誤解を悟った早瀬は、間抜けな声を上げて、まじまじとアカネの手にある手紙を見つめた。にわかに焦りながら、向かい合うふたりの姿を交互にせわしなく眺める。
 近頃の女子高生が使うには珍しいくらい、ありふれたシンプルな手紙。
 それを差し出したアカネは、土岐の反応を待って、緊張に全身を張り詰めさせている。黒目がちの目に影を作る長いまつげが、凍えるような風の中、寒そうにほんのわずか震え、そんな彼女の頼りなげな美しさに気づいて、早瀬の胸は嫌な具合に高鳴った。
――なんだこれ。
 恋のときめきなんかではなかった。もっと切実で、もっと焦燥に満ちた高鳴り。今まで経験したことないもやもやとした感情が急速にせり上がって来て、早瀬を戸惑わせる。
 できることなら、今すぐふたりの間に割って入り、彼女の姿を土岐の視界から締め出してしまいたい。いくら冷血漢の土岐と言えど、こんな可憐なアカネの姿を見ればその凍りついた血も解けて、うっかり彼女のことを可愛いなどと思ってしまうんじゃないか。そんなことになったら一体どうすると居ても立ってもいられない心地になり、そんな自分の思考の危うさにハッと我に返る。
(……どうするって、何がだ)
 もしかしなくても、自分はアカネに対して嫉妬しているのだろうか。
 可愛い女の子に告白された土岐に嫉妬するならまだ分かる。しかし逆に女の子のほうに対して嫉妬を覚えるとは何たることか。こんな無様なこと、早瀬は今までの人生の中で一度たりとも経験したことがない。
(おい……、マジかよ俺)
 この寒いのに、てのひらに嫌な汗が滲んだ。こんな馬鹿みたいな感情を抱くほど、自分はトチ狂ってしまったのかと早瀬が愕然としていると、土岐の手がスッと動いた。特に迷った様子も見せず手紙を受け取ると、封筒の表面を視線でなぞりながら、丁寧な口調でアカネに尋ねる。
「ここで読ませてもらってもいいですか?」
 彼女が頷くのを確認して、土岐は封筒を開いた。元から糊づけはされていなかったようで、苦もなく便箋を取り出すとざっと書面に眼を通し、口もとに手を当てて数秒間何ごとか考え込む。ややして便箋を元通り折りたたむと封筒の中に再び戻し、アカネに改めて話しかけた。
「名前を聞かせてもらってもいいですか」
 程よく低い、深みのある落ち着いた声音で尋ねられ、アカネの顔が耳まで赤く色づく。
「や、八角女子学園、高等部二年の市村(いちむら)アカネといいます」
「私立星辰高校二年の土岐雅義です。これからよろしく」
 言いながら差し出された手を見て、アカネが紅潮した顔をパッと輝かせた。
「いいんですかっ!」
 聞かれて頷くと、土岐は恥らうアカネの手を取って、握手を交わした。重なり合うふたつの手を、早瀬は瞬きもせずすぐ傍らから見つめた。
 ――ちょっと待て、一体なにが起こってるんだ?
 突然の事態に凍りつく早瀬をよそに、周りを取り囲んだ物見高い生徒たちはいっせいにどよめく。
「おいおい、カップル誕生かよ!?」と、誰かが言った言葉が、矢のように早瀬の胸に突き刺さった。すかさずすぐ隣で、「あらら、早瀬が失恋しちゃったー」と行成が呟き、追い討ちの矢にどすどすっと串刺しにされる。ショックに言葉もない早瀬の前で、残酷な光景はなおも続いていた。
「市村さん、よければ駅まで一緒に歩きませんか。ゆっくり話がしたい」
 アカネの目を見つめながら、土岐が誘いかける。これが自分ならばまだしも、初対面でそんな積極的な土岐を見たのは初めてで、吹きつけてくる北風に早瀬は全身の体温を奪われていく錯覚に駆られた。頭はしんと冷える一方なのに、どくどくと鳴る心臓の鼓動だけは妙にやかましいのが不思議でしかたない。
 土岐の言葉に、アカネは即座に「はいっ」と華やいだ声を上げた。嬉しそうな彼女と肩を並べ、ゆっくりと土岐が歩き出す。ふたりの様子を見守っていた実美も「よかったね」とアカネに微笑みながら、その後に続いた。早瀬のことなど振り返りもしない。
 その場だけが冬空の下やけに明るく浮かび上がって見えて、早瀬が呆然と見送っていると、少し行ったところで土岐がふいに振り返り、今さらな言葉をよこしてきた。
「悪いな、今日は別に帰る」
「……」
 黙り込んでしまった早瀬の代わりに、行成が明るい声で、「おっけー、またね」と手を振った。それに軽く手を振り返して、もう一度ちらりと早瀬の顔を眺めると、土岐は再び背中を向けた。そして今度はもう立ち止まることなく、アカネと寄り添うようにして、なにか親しげに語らいながら去って行く。
 三人の姿が夜闇に完全に消えると、とたんに周囲がざわめきだした。
「いいなー土岐、いいなー」とわめき立てる声と、「意外だったな、あの早瀬が……」と囁き合う声が絶妙にブレンドして耳の奥にこだましたが、脱力しきった早瀬はろくに反応することもできない。

 ――――そしてその夜、早瀬にはイ○ポの汚名だけが残されたのだった。

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