恋は語らず -Chapter.2-
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次の瞬間バシーンと高い音が乾いた空気に響き渡り、早瀬の左頬に容赦ない平手が炸裂した。衝撃で一瞬視界がぶれ、早瀬はたたらを踏んでしまう。
「み、実美……!?」
呆気にとられて少女の名を呼ぶと、怒りを煮えたぎらせた大きな瞳がぎりりと睨みつけてくる。早瀬が呼んだ名に、土岐が「ああ」と思い当たったように頷いた。そう、怒りさめやらぬ様子のこの美少女は、今日の昼まで早瀬の彼女だった存在だ。
電話で早瀬を振ったあと、まさかいきなり学校まで押しかけてくるとは思ってもなかった早瀬は、困惑と痛みに顔をしかめながら、自分より頭ふたつ分ほど低い位置にある顔を見下ろす。
「お、お前いきなり何を…」
「うるさい! このイ○ポ!!」
みなまで言わせず、実美が甲高い声で叫んだ。年頃の乙女の口から出るにはあんまりな言葉に、早瀬はあんぐりと口をあけて絶句する。
部活帰りで校舎から出てきていたたくさんの生徒たちも、冬の夜空に響いたとんでもない台詞にぎょっとして、いっせいにこちらを振り返った。しかも、傍らに立つ土岐までが興味深そうにこちらを見ていることに気づき、早瀬は頭が真っ白になる。
(と、土岐に不能だと思われた……っ!?)
なぜだかそれはひどく屈辱的なことに思えた。言いがかりだと咄嗟に反論しようとして、思いがけない方向から掛けられた脳天気な声に、早瀬は言葉を奪われてしまう。
「へー、早瀬ってイ○ポだったんだ」
生徒たちの自転車が並んだ校舎脇からひょっこり現れ、デリカシーの欠片もないことを平気で言ってきたのは、言わずもがな。早瀬の親友から、最近では天敵へとその立場を変えつつある安永行成であった。体育館に寄ったあと、校内を通らず直接こちらにきたようで、その背後には長身の後輩を従えている。
「人は見かけによらないね。ね、春日井」
にこにこしながら同意を求めて行成が後ろを見上げると、「そうですね」と、行成にだけは従順な春日井が素直にあいづちを打つ。しかし思いやり溢れるその眼差しはあくまで行成ひとりだけに向けられたもので、口調自体は淡々としたものだった。いかにもどうでもよさそうなその口ぶりに、早瀬が切れる。
「誰がイ○ポだっ! 俺は健康そのものだ!!」
「じゃあなんで最後に会ったとき、役に立たなかったのよ!?」
絶叫した早瀬に、すかさず実美が叫び返した。間違っても健全な高校生たちが集う学び舎の前で交わされるべき会話ではないが、若さゆえの暴走なのか、二人ともすでにまともな理性が働いていない。
「あのときは、途中で急にっ……」
いきり立って説明しようとした早瀬だったが、すぐにあることを思い出し、恐る恐る傍らに目線をやった。そこには相変わらず何事にも動じない
体
で、静かに立っている土岐がいる。なんだ? と目線だけで聞かれ、早瀬は急に後ろめたくなって、あさっての方向に顔をそらしてしまった。
「『急に』、何よ」
苛立った実美も聞いてきたが、答えるべき言葉が見つからず、早瀬はその場に棒立ちになってしまった。
――そもそもあの時は、最初から気が乗らなかったのだ。
実美と最後に会ったのは半月前のことで、家人が留守であるからと彼女の家に誘われ、やる気満々で自室に連れ込まれた。そこまで行ってしまえば断るのも悪いかと考え、望まれるままに、早瀬はその細い体をベッドに押し倒したのだが……。
互いに服を脱がせ合ったあたりでなぜか突然土岐の顔が頭をよぎり、早瀬はその瞬間さっと醒めてしまった。やわらかくまろやかで、触るだけで楽しかったはずの実美の体が、急に色褪せて見えた。
あいつの体はきっともっと引き締まっていて、触ると手ごたえも全然違うんだろうなどと、無意識のうちに比較している自分に気づき、早瀬は愕然とした。
(お、俺は一体なにを考えて……)
己のとんでもない妄想に蒼ざめ、早瀬はとにかく目の前の体に集中しようとした。しかし焦れば焦るほど繊細な自身は萎える一方で……。
結局どうすることもできず、その日早瀬は情けない気分で白旗を掲げると、実美をベッドに残したまま服を着込み、逃げるようにして部屋を後にしてしまった。置いてきぼりにされて呆然とする実美には、フォローの言葉ひとつかけられないまま……。
思えば並み居る恋人たちに連絡を取ることが面倒になり始めたのも、あのころからだ。男のことを考えてしまって、女相手に役に立たない自分なんて、認められるはずもない。二度と同じ経験を繰り返したくないという早瀬の自衛本能が、自然と女の子たちを遠ざけた。
だがそんな事情を一切合切、今この場で事細かに説明できるはずがない。それどころか下手なことをしゃべって、自分のやましい思いを少しでも土岐に知られたらと思うと、おぞましすぎて寒気がした。うろたえて黙り込んでしまっていると、そんな早瀬を見てどう思ったのか、実美がため息をひとつつき、冷え冷えとした口調で言い放った。
「もういい。つまりやっぱり武士(たけし)はイ○ポだったってことでしょ? 役立たずの男なんかに興味ないし、後腐れなく別れられて良かったわ」
「なっ……」
「あれから急に会おうとしなくなって、電話してもテキトーなことばっかり言うし。いい加減むかついてたんだけど、イ○ポじゃしょうがないわよね。理由が分かってスッキリした。こんなとこまで押しかけてきてごめんね、バイバイ」
「おい、ちょっと待て! 俺はイ○ポなんかじゃっ」
捨て台詞を残し、くるりと後ろを向いて立ち去ろうとする実美に、男の沽券に関わる誤解を放っておけるかと、早瀬は必死に追いすがろうとした。なにしろ土岐や行成はおろか、まだ結構校内に残っていたらしい生徒たちが、気づけば
十重二十重
に自分たちを取り囲んで物珍しそうに見物しているのだ。
しかもどいつもこいつも早瀬を指差しながら、小声でひそひそ何かを言い交わしている。「イ」で始まり「ポ」で終わる三文字をみんなが連呼しているように思えるのは、きっと早瀬の被害妄想のせいだけではないだろう。このままでは明日には自分が男として役立たずだと、全校に広められてしまう。タラシを自認する早瀬にとって、それは到底許せることではなかった。
しかしそんな早瀬のプライドなど、元カノにとっては知ったことではなかったようだ。さっさと帰ろうとしていた耳だったが、何かに気づいて「あっ」と小さく声を上げ、ぴたりと足を止める。そして校門のほうに向かって、ぶんぶんと大きく手を振った。
「アカネー!! ごめんごめん、あんたのこと忘れてた。こっち来なよ」
実美の呼ぶ声に応えておずおずと近づいてきたのは、先ほど実美と並んで校門に立っていたシルエットの、片割れの少女だった。パワフルな実美とは対照的な、楚々とした風情の美少女の登場に、周囲から「カワイー」と野太い歓声が上がる。
その声にすら怯えて肩をすくませながら、アカネと呼ばれた少女は一目散に実美のもとへと駆け寄ってきた。必死にしがみついてくる臆病な小動物のような友人に、実美が呆れ顔になる。
「なにビクついてんのよ、アカネ。あんたが用があるって言うから、あたしもついでがあったし、一緒についてきてあげたのに」
「俺はついでか!?」と突っ込みを入れる早瀬の心中など知らぬげに、ざっくばらんな言葉とは裏腹な優しい手つきで、実美が友人の背中を撫でてやる。まだオドオドしたまま、アカネがゆっくりと顔を上げた。
「実美ちゃん……」
「ほら頑張って! 用があるのはあたしじゃなくて、あっちでしょ」
先ほどまでの怒りに燃える修羅の顔はどこへやら。面倒見のいい姐御の風情で実美がアカネの両肩をつかむと、くるっとその体の向きを変えさせた。早瀬たちと正面から向かい合う形になり、それぞれタイプの違う美形たちからいっせいに視線を向けられたアカネが頬を赤らめて目を伏せる。しかし実美から励ますようにもう一度背中を叩かれると、緊張に震える手でカバンから何かを取り出した。
夜目にも白く輝く、長方形の薄っぺらい物体。それはどう見ても何かの手紙だった。大事そうにそれを胸元に抱え込み、アカネが一歩一歩近づいてくる。
(ひょっとして、今どきラブレターか?)
だとしたらあまりにも時代錯誤な気がしたが、考えてみれば、今早瀬と並んで立っている先輩後輩のでこぼこコンビも、一通の手紙からその関係が始まったのだ。こいつらが愛のこもった文通をしている寒い事実に比べれば、可愛らしい女の子がラブレターを出してくるほうがはるかにロマンチックに思える。
しかし今日振ったばかりの男に、友人が告白しようとするのを励ますとは、実美は一体どういうつもりで、と咄嗟にアカネの告白の対象が自分だと思い込んだ早瀬は、すぐ己の自信過剰ぶりに気づかされることになった。
アカネが歩みを止めたのは早瀬の前ではなく、そのすぐ隣に立つ男の前だった。恥じらいで白い頬を真っ赤に染め、高いところにある男の顔を見上げながら、アカネが必死さの滲むか細い声で告げる。
「あの、土岐さん。よければこれ、読んで下さい」
そして細かに手を震わせながら、持っていた手紙を土岐へと差し出した。
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