恋は語らず -Chapter.2-
3
(――気づいている。いや、気づいてない。でもやっぱり気づかれている。いやいや、意外と気づかれてないかも……)
キャンバスを前に腕組みし、まるで花占いでもしているかのように何度も何度も自分が抱えたやましい思いを土岐に感づかれているか否か、真剣に考え続けていた早瀬は、思考に没頭するあまり、正面からするすると伸びてきた手に気づくのが遅れた。
ぼんやりしている早瀬の両頬を、突然襲ってきた手がいきなり左右からムギュッと押しつぶす。
「な……」
いつの間にか、目の前に行成が立っていた。その小さな手で早瀬の頬をぐいぐいと挟みこみながら、「あっちょんぶりけー」と謎の呪文を唱え、無邪気にケタケタと笑っている彼にしばし呆気にとられ、そしてすぐに正気に戻って早瀬はカッとなって行成の両手を払う。
「何してんだよ!?」
「何って、もう最終下校の時間だよ。早瀬こそいつまでキャンバスの前でぼけーっとしているつもりなんだよ」
「え?」
逆に呆れたように言われ、慌てて窓の外を見てみれば、確かに日が落ちきって外はすでに真っ暗だった。
普通教室の入ったメインの長細い棟の両端から突き出すようにして、特別教室が入っているこの棟と「コ」の字型に向かい合わせに建っている体育館に明かりが見える以外は、どの教室もほとんど明かりが落とされていてひと気もない。
「なんだこれ!? いつの間に」
驚きのあまり叫んでしまった早瀬を、行成が急かす。
「さっきチャイムだって鳴ってたじゃん。ほらほら、さっさと帰るよ」
すでに制服の上から愛用のダッフルコートを着込み、カバンを背負って、完全に帰り支度を整えていた行成は、仕上げとばかりにぐるぐると首元にやわらかそうなベージュのマフラーを巻きつけると、背後で油彩の道具を片づけていた土岐をくるりと振り返る。
「じゃ、俺体育館に寄ってるから、あと鍵よろしく。校門で待っててね」
「ああ、後でな」
「体育館?」
これから帰るというときに、そんなところに一体何の用だと首をひねる早瀬には構わず、行成は少し慌てたような足取りで美術室を出て行ってしまう。廊下をパタパタと駆けていく足音が聞こえ、すぐに小さくなって消えた。
「どうして体育館?」
しかたなく土岐に聞き直すと、答えはすぐに返ってきた。
「春日井を迎えに行ったに決まっているだろう。バスケ部は体育館で活動しているからな」
「はぁあ!? どうしてわざわざ」
「一緒に仲良く帰るために」
げー…とうめいた早瀬を振り返り、口端をわずかに引き上げて、土岐がからかうような調子で聞いてくる。
「なんだ、あいつらに妬いているのか」
「へ?」
なんのことかよく分からなくて首を傾げてから、そういえばこの男が今まで何度も、早瀬が行成に横恋慕していると決めつけていたことを思い出す。
(――こ、こいつ……。まだそんなことを言ってんのか!?)
だいたい行成によれば、土岐は早瀬の気持ちに気づいているのではなかったのか。なのにこの台詞は一体どういうことなのか。
わけが分からず再びぐるぐるしていると、窓の鍵を下ろし、土岐が部屋の戸締りを始めた。カーテンが引かれる音でハッと我に返り、早瀬も慌てて椅子から立ち上がって手伝おうとしたが、そっけない声で制された。
「いいから、お前も早く帰り支度をしろ。見回りが来る前にここを出るぞ」
最終下校の校内放送が流れて十数分もすると教員の巡回が始まり、校内に残っている生徒たちを早く帰れと追い立てに来る。
その前に帰るぞと土岐に言われ、早瀬は結局ほとんど手をつけられなかったキャンバスを乾燥棚に仕舞うと、イーゼルと椅子を片づけてコートを羽織った。
ボタンを全てはめ終わる前に、戸締りをすべて終えて美術室の鍵を手にした土岐が部屋の電気を消そうとしているのに気づき、咄嗟にカバンとマフラーをつかんで部屋の外に駆け出る。
すぐにパチパチッと教室の明かりが落とされた。扉に鍵をかけ、二人は非常灯だけが輝くほの暗い廊下を歩き出す。
身繕いしながら歩いているためわずかに土岐より遅れながら、前を行く真っ直ぐな背中を眺め、早瀬は改めて先ほどの土岐の言動を思い出していた。
(やっぱりこいつはまだ何も気づいていないんじゃ……)
仮にそうだとしたらどんなにいいかと祈るように思う。そもそも自分でさえ認めきれていない感情を、他人においそれと分かるわけないじゃないかと繰り返し自分に言い聞かせているうちに、行成の非情な言葉によってどっぷりと落ち込んでいた早瀬の気持ちはゆっくりと浮上し始めた。
なおも頭の中で「気づかないわけないよ! あの土岐だよ!?」と断言してくる行成にはとりあえず想像の内で二三発食らわせて口をつぐませ、早瀬はそっと安堵の息を吐き出した。
たとえ想像の内と言えど、行成に拳を振るったことがもし春日井にでもばれた日には三倍返しを喰らうだろうが、とりあえず目先の心配から目を背けることに成功し、少し軽くなった足取りで早瀬は土岐に追いついた。そして廊下の窓からも見える体育館の明かりに、ふと浮かんだ疑問を口に出す。
「行成が迎えに行ったってことは、バスケ部、最近は5時半で練習が終わるのか。ずいぶん早くないか」
一般に武より文で県下に鳴り響くこの星辰高校だが、その中にあってバスケ部だけは今季めきめきと成績を伸ばし、あらゆる大会で台風の目になっている。
快進撃の理由はなんと言っても、一八〇cmを超える長身と並外れたバスケセンスを兼ね備えた春日井柊二(かすがい・しゅうじ)が今春入部し、フォワードとしてレギュラーに定着したことが大きい。
そしてチームが強くなるに従い部員も顧問もやる気を増し、ここ最近は毎日居残って午後七時ごろまで練習するのが当たり前になっていた。行成と春日井がオツキアイするようになってからも、早瀬はふたりが一緒に帰る姿を見たことがほとんどない。それがどうしてと思っていると、土岐が答えをくれた。
「新人戦も終わったし、期末試験も近いからペースダウンしているんだろう。休み中は合宿するらしいから、そのときにみっちり練習するつもりなんじゃないか」
「合宿? どこに」
「軽井沢とか言っていたな」
私立だけあって、この星辰高校は付属施設がなかなか充実している。大学部や中等部と共用の合宿施設も国内に三箇所ほどあって、長期の休みには各運動部ともそこで合宿を行うのが常だった。しかし真冬によりによって軽井沢かと、早瀬はひとごとながらつい眉をしかめてしまう。
「寒くって、練習にならないんじゃねえの」
「どこの運動部もそう思って敬遠するから、合宿所が空いていて、この時期はかえって狙い目なんだそうだ。体育館にストーブを運び込んで練習すると、大塚が言っていたぞ」
同じクラスのバスケ部副部長の名を土岐があげたところで、ちょうど職員室についた。鍵を返却し、残っている教員に簡単に挨拶をしてから、二人は昇降口へと向かう。
「――さむっ!」
靴を履き替え、玄関口のガラス戸を開けた瞬間、強い寒風が吹きつけてきて早瀬は震え上がった。足下で枯れ葉がカサカサいいながら、風に流されて小さな渦を巻く。年末になってすっかり日が暮れるのが早くなり、ここ最近の寒さはまるで肌に直接突き刺さってくるような厳しさだった。
首に巻いたマフラーに深く顔をうずめ、手袋を探してコートのポケットに手を突っ込んだとき、吐き出した白い息越しに見えた光景に、早瀬はふと首を傾げた。
「……なんだ、あれ」
校門を出たあたりのところに、街灯に照らし出されて、細身のシルエットがふたつ浮かび上がっている。明らかに少女だと分かるそのシルエットは、こんな時間に男子校で見るにはずいぶんと不釣合いなものだった。
不思議に思いながら眺めていると、そのうち向こうもこちらの存在に気づいたようだ。シルエットの片割れが荒々しい足取りでこちらに近づいてくる。距離が近くなるにつれ相手の姿がはっきりと見えてきて、それが誰なのかわかったとき、早瀬は気まずく眉を寄せた。
「お前の知り合いか」と土岐が聞いてきたのに、なんと答えたものか迷っていると、その間にもはっきりした顔立ちのグラマラスな美少女が目の前に仁王立ちになっていて、右手を大きく振りかぶる。
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