恋は語らず -Chapter.2-
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「ねえ、ひょっとして早瀬って、土岐のことが好きなの?」
―――――ボトッ、ガンッ、カラカラカラ……
美術室の汚い作業台で後輩あての手紙を書いていた行成がふと顔を上げ、いきなりそんなことを聞いてきたので、キャンバスに向かっていた早瀬は動揺のあまり、左手に持っていたパレットを膝の上に落としてしまった。
チューブから搾り出されたばかりの絵の具を制服のズボンにべっちょりとなすりつけながら、パレットが勢いよく床に落下していく。カランと乾いた音が響き、先人たちが汚しつくしてきた美術室の床に、また新たな絵の具汚れが塗り重ねられた。
「うっわ、コントみたい」
極端な反応に感心したように行成が言うのも耳に入らず、早瀬は肩を喘がせながら、もつれる舌を必死に動かして行成の言葉を否定しようとした。
「な、ななななななに馬鹿言ってんだ!? なんで俺がと、ととととと土岐のことなんかっっ」
「違うの? 最近土岐といるときの様子があからさまにおかしかったから、てっきりと思ったんだけど」
「あ、あんな人非人を好きになるわけがあるか―――!! 俺はマゾじゃない」
いや、サドマゾ言う前に男同士であることを早瀬としては問題にすべきだったかもしれないが、思考回路が焼き切れてしまったのか、頭がまともに働いてくれない。動転する彼に、行成はけろりと言ってのけた。
「あー、早瀬は確かに自覚のあるマゾじゃないよね。潜在的にマゾっぽいけど」
「……っ」
相変わらず友を友とも思わない行成の血も涙もない一言に、早瀬は絶句した。構わずに行成は指先でシャープペンシルをつまみ、ぶらぶら振りながら続ける。
「まあ、早瀬がマゾかどうかについては、本人の自覚を待つことにして」
「だから俺はマゾじゃないっっっ!!」
「あれだけ毎日土岐の前で右往左往してたり、信号機みたく顔色を変えてたら、誰だっておかしいと思うよ。さすがに女たらしの早瀬がホモになったとまでは、みんな思っていないみたいだけどさ、『早瀬は土岐に何か後ろめたいことでも抱えてるのか?』って、俺までみんなに聞かれたりしてんだよ」
「え……?」
――――み、みんな気づいている?
衝撃の事実に、早瀬はザッと蒼ざめた。そんな馬鹿なと思いながらも、確かに土岐の前で不審な行動を繰り返した覚えが死ぬほどある彼には、否定することもできない。
男に惚れてしまったかもしれないと思うだけで泣きそうなのに、その上クラスメートたちにまでこの気持ちを知られてしまったとしたら、自分は一体この先どうやって生きていけばいいのだ!? 早瀬は目の前の小動物じみた友人のように、公衆の面前で男に膝枕をさせながら、いちゃつけるような宇宙人ではない。
(転校だっ! もう転校するしかっ)
錯乱するあまりそんなことまで考えて、はたと早瀬は一番肝心なことに思い至った。動揺して四方にさ迷わせていた視線を前方へと戻し、行成に向き直る。
「ユキ……」
「んー?」
すでに会話は一段落したと判断したのか、パニックに陥っている早瀬を放り出して、行成はさっさと手紙を書くのを再開していた。面倒くさそうに顔も上げずに返事する彼に「友情って」と哀しくなりながら、早瀬はもっとも危惧することを恐る恐る尋ねる。
「と、土岐は……。ひょっとして土岐も、俺の様子が変だとか何とか、気づいているのか?」
「はあ!? あったり前じゃん、気づかないわけないでしょ。あの土岐だよ?」
眼鏡の奥の透徹した眼差しで周囲の何もかもを見透かしているような土岐が、挙動不審きわまりない早瀬に気づいてないわけがないと行成に断言され、早瀬は血の気が引きすぎるあまりくらくらと眩暈まで覚えながら、震える唇で問いかけた。
「じゃ、じゃあ何であいつは、何も言ってこないんだ」
早瀬がどれほどそわそわしていても、土岐はせいぜい胡乱な視線を向けてくるだけで、取り立ててこちらを気にしてくる素振りもない。だから早瀬も何とか今まで通り、土岐の近くに居続けることができたのに!
すがりつくような必死のまなざしを向けられ、行成は少し考えるように、シャーペンのお尻でこりこりとこめかみをかいた。ややして、さらりと言い切る。
「やっぱ早瀬のこと、どーでもいいと思ってるからじゃないかな?」
あまりといえばあまりに酷なその一言に、早瀬は
大陸間弾道ミサイル
の直撃をくらってしまったくらい、筆舌に尽くしがたい衝撃を受けた。
――どーでもいい、どーでもいい、どーでもいい……
ぐわんぐわんと早瀬の頭の中を、行成の言葉がリフレインする。
衝撃のあまり真っ白になってしまった早瀬の顔を楽しそうににこにこと見詰めながら、天使のような顔で悪魔の魂を持つ友人は、さらに何か言おうと口を開きかけて、再び閉ざす。美術室の白い扉を横にカラリと開けながら、誰かが中に入ってきたからだ。
「あ、土岐。早かったね」
入ってきたのは土岐だった。所属している文化祭実行委員会の定例会議があったため、今日は部活に来るのが遅れたのだ。
「この時期は、うちの委員会は大した議題がないからな」
カバンを作業台に下ろしながらそう答えた土岐は、行成によって精神的に瀕死の重傷を負わされ、まだ呆けている早瀬を見て、軽く眉をしかめる。
「おい、どうしたんだこいつは」
「さあ?」
直接的加害者である行成はさらりと空とぼけ、手紙の続きをまた書き出す。土岐はもう一度反応のない早瀬に視線を落とすと、くるりと身を翻し、教室の片隅に常備されているベンジンの瓶を手に取った。そして瓶とセットで置いてあった使い古しの布きれに、強い刺激臭を放つ液体をたっぷりと染み込ませる。
「おい早瀬。そのズボンの汚れ、早くしないと落ちなくなるぞ。これでさっさと拭け」
強引に腕を取られ、掌に布きれを落とされて、ようやく早瀬の眼が正気を取り戻す。言われて見てみれば、さっき思い切りパレットを落としてしまった制服のズボンはすでに油絵の具が乾き始めて、一刻の猶予もならない状態だった。
渡された布きれを使ってのろのろと制服の汚れを落とし始めると、すぐに服地に液体が染み込んできて、膝頭がひやりとなる。薬品の臭いがツンと鼻孔をつき、まるで泣くのをこらえているような錯覚を早瀬にもたらした。
深く落ち込んだ彼の心に、土岐のちっぽけな親切が染み込んでくる。指にシンナーの臭いが染み付いてしまうくらい、何度も何度も布をズボンにこすりつけて汚れを落としながら、早瀬はぐっと奥歯をかみ締め、胸にまたこみ上げてきた不可解な情動を懸命に押し殺した。
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