恋は語らず -Chapter.2-

1

 昼食後、いつも通り窓際の自分の席でのんびりと本を読んでいた土岐雅義(とき・まさよし)は、昼休みの教室内に溢れる雑多な音の合間を縫って響き渡った電子音のメロディに読書を邪魔され、顔を上げた。
 すぐ後ろの席を振り向くと、机の上に組んだ両腕に顔を埋めるようにして昼寝している早瀬武士(はやせ・たけし)のすぐ傍らで、ディスプレイをピコピコッ、ピコピコッと点滅させながら鳴り続けている携帯電話が視界に入る。
 ちょうど今ヒットチャートを急上昇中のバラードを加工した音楽は当然耳に入っているだろうに、寝たふりをしたまま起きようとしない友人の携帯電話を取り上げると、土岐は椅子ごと体の向きを変え、携帯のアンテナ部分で目の前にある形のいい頭をつついた。
「早瀬、お前の携帯が鳴っている。早く出ろ」
「うー……」
 急かされて不機嫌な唸り声を上げながら、ようやくのろのろと早瀬が顔を上げた。隙なく整った顔立ちの中、目尻だけがいくらか下がっているのが親しみやすさと色気を感じさせるその色男面は、しかしここ最近妙にやつれて憔悴して見える。長めに伸ばした髪をかきやりながら携帯を受け取ると、心底だるそうに受信ボタンを押した。
「……はい?」
 通話に切り替わったとたん、金属に似た高い声が奔流のように携帯のスピーカーから溢れ出してくるのが、土岐の耳にまで聞こえてきた。どうやら電話の相手は女であるらしい。しかも相当怒っているようだ。
 だが、一方的にまくし立ててくる相手に、早瀬は相槌すら打とうとしない。一応耳に携帯を当ててはいるものの、ぼんやりと宙を見つめていたかと思うと、やがて気のない様子で再び机に突っ伏してしまった。
 起きているのか寝ているのかも分からないような声で、「あー」とか「うー」とか適当に返事をする彼に、とうとう相手は本気で切れてしまったらしい。
 電話越しとはとても思えない大きさで、一際甲高い声が『もういい! バイバイ!!』と最後に絶叫した。そのまま向こうからブチッと通話が断ち切られる。
「いってー…」
 凶悪な音量の声に鼓膜を直撃され、痛そうに顔をゆがめながら、早瀬が片耳を手でさする。頭を起こしてちらりとディスプレイを眺め、今電話を掛けてきた相手の名前を確認して、ボソリと呟いた。
「……実美(みみ)か」
 ふっと溜め息を漏らすと、早瀬は携帯のアドレス帳を開き、躊躇なく実美の登録を抹消してしまった。操作を終えると携帯の電源を落とし、厄介ものを遠ざけるようにして、机の片側に掛けたカバンの奥深くに放り込んでしまう。そしてもう一度溜め息を深々と漏らした。どこかうつろなその表情を観察するように土岐が眺めていると、顔を上げた早瀬と正面から眼が合う。
 一瞬奇妙な沈黙が落ち、早瀬はどこか気まずそうな表情で視線を逸らした。落ち着きなくうろうろとあたりを眺め、やがてまたばったりと腕枕に顔を伏せてしまったが、かと言って寝てしまうでもない。
 居心地悪そうに、何度も腕の上でごそごそと置き場所を変えているその頭頂部を、土岐が胡乱げに眺めていると、教室の戸口から出し抜けに、男にしては高めの通る声が響いた。
「なに早瀬、またフラレたの!」
 すっかり昼休みの恒例となってしまった後輩との中庭デートからちょうど帰ってきたところなのか、小柄な身体を軽快に動かしながら、安永行成(やすなが・ゆきなり)が呆れ顔で近づいてくる。早瀬が無視して顔も上げずにいると、行成は子供のように小さくてやわらかな手を伸ばして、寝たふりを続けている友人の髪の毛をぐしゃぐしゃとかき乱し始めた。
「やめろって!」
 たまらず早瀬が起き上がると、行成はあっさりと手を離し、早瀬の机の片隅にちょこんと腰を引っかける。
「今月に入ってからこれで何人目だよ。まだ残っている女の子はいるの?」
「……知らねー」
 長身で女好きするルックスを持つ早瀬は、男子校に通っているにもかかわらず、非常に女にモテる。
 それもなぜか遊び慣れた女たちに受けのいい彼は、相手があまりディープな恋愛を望まないのをいいことに、海のように広く、水たまりのように浅い男女交際を続けていた。その結果、早瀬にはよろしくないことに恋人未満友達以上のオンナの子が数えるほどにいる。いや、いたのだったが……。
 わずか半月ほどで、その数は驚くほど減った。短い間に次から次へと、付き合っている女たちから早瀬がフラレまくったからである。早瀬の突然の異変の原因が何なのか誰も知らず、そして誰もが好奇心まじりに知りたがっている。
 その一人である行成は、記憶をたどりながら、親指から順に指を折り曲げて数え始めた。
「俺の知ってる限りで、一番最初に別れたのが鈴村女子校のまゆちゃんでしょ。それからOLの美由紀さんに、都立春川のリーダーの先生、同じ春川の保健室の先生、隣のクラスの大橋のいとこと別れるときには大橋から平手打ちまでくらってたのに、また懲りずに別れ話? 今度は一体どの子?」
「実美とか言っていたぞ」
 聞かれた本人が答える前に、早瀬の呟きをしっかり聞いていた土岐が答えてしまう。
「えー、実美ちゃんって、八角(やすみ)女子学園の本間(ほんま)実美ちゃんのこと!? 最近たまにグラビアアイドルなんかもやっている子じゃん。一体どうやってそんな子と付き合うようになったの?」
「八角の学祭に行ったときに、向こうからナンパされたんだよ。……っていうか、何でお前が俺の女にそんなに詳しいんだ?」
 プライベートな色恋沙汰をつつかれ、早瀬が嫌そうに眉をしかめる。そんな彼を、周囲の男たちが嫉妬のこもった視線でねめつけた。
 今名前があがった女の子たちを知っているのは、何も行成だけではない。OLはともかくとして、この付近の男子高生たちに「つきあってみたい女の子」、「一度お願いしたい美人女教師」というテーマでアンケートをとれば、間違いなく上位に食い込むような、人気のある子ばかりなのだ。
 早瀬と行成の会話をこっそり盗み聞いていたあるクラスメートは、教室に持ち込んでいた漫画週刊誌の巻頭グラビアページを無言で切り裂きながら、忍び泣いている。話題の実美ちゃんが写っていたらしい。どうやら彼は、実美ちゃんのファンだったようだ。
「また随分といい加減なつきあい方をしてきたものだな。とうとう本命でもできたのか?」
 早瀬に劣らず近隣の女子高生に人気のある土岐が、非難するでもなく聞いてくる。質問の形なのに、大した興味もなさそうなその口調にムッとし、早瀬が「余計なお世話だ」と睨みつけると、土岐は軽く肩をすくめ、気にした様子もなくまた本を広げてのんびりと文字を追い始めた。
 その素っ気ない態度に何となく拍子抜けしながら、目の前の端正な顔を、早瀬はぼんやりと眺めた。
 伏目がちにされた土岐の長い睫は、何の手入れもしていない分、女よりも綺麗にまっすぐ伸びている。眼鏡のガラス越しに見える色素の薄い瞳は、見るたび早瀬の胸に不可解な衝動を呼び覚ました。
 なめらかな肌に覆われた肉の薄い頬に触れてみたいと思い、まっすぐ通った細くて繊細な鼻梁を指先でなぞってみたいと思い、並びの綺麗な歯列を奥に隠し持った、酷薄そうな薄い唇に口づけたくてしかたなくなり……
(ちくしょう……っ)
 およそ級友に向けるべきでない自分の思考の不純さに、わめき出したい気持ちで早瀬は乱暴に髪をかきむしった。「自分で髪をかき回すのはいいのかよ」と行成が不満そうに言ってきたが、そんなことに構っていられない。
 本命、はいるのかもしれない。だからこそ最近こうも調子が上がらないのかもしれなかったが、一方でそれだけは認めたくない自分がいる。
 いつだって落ち着き払った顔をして、何を考えているのか分からない、こんな奴に血迷ってしまうわけがない。しかも最悪なことに、相手の性別は紛れもなく自分と同じ「男」なのだ。やはりどう考えても、こんな奴に惚れてしまうなんてありえない。ありえないのに……っ!
 はじめて土岐のことを意識してしまったあの夕暮れから、この不可解な感情は膨れ上がる一方で、いまだにまったく冷める様子がないのだ。自分で自分が分からなくなってくる。
(一体なんだってこんなことに……)
 考えたところで答えは出ない。自分でコントロールできる程度の軽い恋愛しかしたことのなかった早瀬は、未知の体験にひたすら懊悩していた。ちらちらと土岐の顔を見ながらやるせない表情を浮かべる早瀬を見て、行成が不審そうに眉をひそめるが、それにも気づかない。
「早瀬、あのさぁ……」
 机から降りて、行成が何か言おうとしかけた。だが、その時ちょうど午後の授業開始の本鈴がスピーカーを通して鳴り響き、教室の前で待機していたのかと思うようなタイミングのよさで、午後の一コマ目を担当する世界史の教師が教室の中に入ってきてしまう。
「よーし、お前ら席につけー! 今日は欠席者はいるかー! いないなー!? では授業を開始する。教科書一九六ページ開けー」
 昼休みに一服してきたのか、タバコくさい息で矢継ぎばやに指令を繰り出し、ガツガツと黒板を削るような勢いで教師が板書を開始した。容赦ないそのスピードに生徒たちも慌てて自分の席に戻り、教科書やらノートやらを机の中から取り出す。すぐに野太い教師の声と、板書をノートに書き写す鉛筆の音だけが教室内を満たした。
 チャイムが鳴るやすぐさま正面に向き直ってしまった友人の背中をもう一度だけ物憂い視線で眺め、押さえても押さえてもこみ上げてくる戸惑いを無理矢理呑み下すと、早瀬も教科書とノートを取り出し、何とか意識を産業革命に集中させようとした。
 だから斜め後ろの席に座る行成が、何か言いたげな目でこちらをじっと見つめていることには、全く気づかなかった。

-Powered by HTML DWARF-