恋は語らず -Chapter.1-

14

 昇降口を上がったすぐそこは、壁面全体が大きな窓ガラスで覆われた、広々とした吹き抜けの空間になっている。
 行成たちの行方を探して辺りを見回したふたりは、すぐにリノリウムの白い床に点々と続く、大小ふたつの足跡を見つけた。土足で校内を駆け抜けた、行成と春日井が残していったもののようだ。
 足跡をたどって校舎奥の階段を上る早瀬と土岐の傍らを、何人もの生徒たちが息せき切って駆け抜けていく。中の数人が上階を指差しながら、「美術室に向かったぞー」と叫んでいた。なるほど、この階段を四階まで上がれば、その奥に美術室がある。
 白昼堂々、学校内で告白劇をやらかしたふたりの恋の行方を知りたがっているのは早瀬たちだけではなかったようで、美術室に近づくごとにどんどん野次馬の数が増え、先に進むのが難しいほどになってきた。自分たちのクラスメイトはおろか、老若問わぬ教諭陣の姿まで見える。
 これだけ大っぴらに騒がれるとかえって怒る気も失せるのだろうか。まだ休み時間なのをいいことに、教諭たちはにぎやかすぎる生徒たちを咎めることもせず、むしろ楽しげに周囲の教え子たちをつかまえては、話がここにいたるまでの経緯を問い詰めたりしていた。
 一応男同士の色恋沙汰なのだから、中には嘲笑したり嫌悪したりする者がいてもおかしくなさそうなものだが、あまりにも堂々とした行成と春日井の振る舞いはすでにほとんど見世物扱いされてしまっているようで、面白がるものや恐いもの見たさで押し掛けるものはいても、罵倒したり怒りを示したりしているものは誰もいなかった。それが果たして良いことなのか悪いことなのかは、また別の問題だが。
 やがて早瀬たちが美術室の前の廊下にまでたどり着くと、姿を現した美術部トリオ残り二人の登場に、野次馬たちがいっせいにどよめいた。
 話を聞きたそうにしている彼らを無視して、その間を器用にすり抜けながら、土岐がどんどん先へと進んで行く。早瀬も両腕で強引に人波をかき分けてあとに続いた。ほどなく美術室の扉の前にたどり着く。
「誰か中に入ったのか?」
 閉ざされている扉を見て早瀬が聞いてみると、周囲にいた生徒たちがそろって首を横に振った。どうやら春日井の怒りが恐くて、扉を開けかねていたらしい。そう話した生徒の中には三年生も混じっていて、校内一の長身と体格と迫力を誇る春日井は、すでに上級生からも畏怖されているらしきことが分かった。
 そんな彼らと対照的に、なんの気負いもない表情で、土岐がからりと扉を開けて中に入っていく。そのまま無情にもすぐに扉を閉ざそうとする彼に慌てて、早瀬も横にすると、すばやく扉の隙間をすり抜けた。
 ピシャンと扉が閉められると、廊下の喧騒が少し遠のいた。中を垣間見ることすらできなかった野次馬たちが残念そうにため息を漏らすのが、かすかに聞こえる。
 部屋の窓際にいた行成が、入ってきたふたりをちらりと見た。その顔は珍しくもひどく混乱し、戸惑っているように見える。しかし行成と対峙している春日井は、こちらを見向きもしなかった。
「どうして突然俺と付き合えないなんて言い出したんですか、安永先輩。せめて理由をきちんと聞かせてください」
 早瀬たちが室内に入るまでに、すでに問答は何度も繰り返されていたのだろう。春日井の声は苛立ちを隠せずに、かなり荒れていた。そして向かい合う行成はといえば、春日井よりもはるかに荒れまくっていた。
「だから春日井は大輔で、大輔は俺が殺しちゃったから、春日井とももう付き合いたくないんだよ!!」
 ――まったくわけが分からない。
 完全にかんしゃくを起こし、顔をくしゃくしゃにして叫ぶ行成に、それでも辛抱強く春日井は話しかけた。
「その大輔ってやつが誰なのか知りませんが、俺は俺です。死んだりしません。一体どうして急に、そんなことを考えるようになったんですか」
「だって、早瀬が……」
 すねたようにそっぽを向きながら行成が言うと、途端にピクリと春日井の額に青筋が立った。ぞっとして、早瀬は土岐の体を盾に後ろに下がる。たとえ情けないと言われようが、恐いものは恐いのだ。この恐怖は、春日井を実際に前にした者にしか分からない。
「早瀬先輩が、何を言ったんですか」
「……春日井は俺に惚れているのに、生殺しにするようなのは可哀想だって。そのうちストレスがたまって、春日井も死んじゃうって」
 違う、俺は参っちまうって言ったんだ。死ぬなんて一言もいってないと早瀬は訴えたかったが、声が喉のところに張りついてしまって出てきてくれない。春日井の殺気を含んだ視線に睨みつけられ、背筋をツウッと冷たいものが伝った。
 行成以外ではおそらくこの校内で唯一春日井の迫力を受け流せる目の前の土岐の存在が、今はひどく頼もしい。その土岐は特に気負った様子も無く、泰然とその場にたたずんでいる。
 早瀬が盾にしたせいで、結果的に早瀬を春日井の視線から遮ることになった土岐の冷徹な視線と、恐ろしく剛い春日井の視線が一瞬だけ絡み合い、そしてすぐに互いが互いに興味を失ったことで逸らされた。
 春日井が一度すっと息を吸った。落ち着き払った土岐を見て頭に上った血が幾分冷えたのか、先ほどよりは幾分穏やかな口調で行成に語りかける。
「何度も同じことを言うようですが、俺はそうそう死んだりしません。たとえ車にはねられようが、雪山で遭難しようが、必ず生き残ってみせます。よけいなことも望みません。俺は安永先輩の近くにいられるだけで十分だから、お願いですから、二度と会わないなんて言わないで下さい」
「……本当に? 本当に俺を残して死んだりしない?」
「そんな簡単に死ぬように見えますか、俺が」
「だって大輔は……」
「だから一体誰なんです、大輔って」
 しつこく繰り返される名に、また春日井が顔を強張らせた。だが返ってきた行成の答えに、その表情が怒りから戸惑いへと変化する。
「ラブラドール・レトリバー。俺が生まれる前から家にいて、俺といつも遊んでくれたんだ」
「……ラブラドールって、たしか犬の種類だったような気がするんですが」
「うん。大輔はすごくハンサムな犬だったよ」
 さすがに犬の影響で行成に遠ざけられたとは考えもしなかったようで、つかの間春日井が絶句する。しかしすぐ気を取り直し、力を込めて行成の説得にかかった。
「その大輔は、行成先輩を残して先に死んでしまったんですか」
「うん。俺がいつもひっついて離さなかったせいで若死にしたのに、いつだって俺に優しくて……。最期は俺の手からだけ餌を食べて」
 大好きだったんだと切なげに語られる行成の言葉に、「どこが若死にだ。大往生だ」と心中突っ込んだのは、土岐だったか早瀬だったか。
 しかし大輔の享年を知らない春日井は、神妙な顔でひとつ頷くと、行成の滑らかな頬に優しく手を添えた。その愛しげな仕草を見て、「ゲッ!」ともはや条件反射のように早瀬が後ずさりしたが、そんな彼のすぐ側に立っていたはずの土岐はいつの間にか椅子をひっぱり出し、作業台に片肘をついて、もうすっかり傍観の構えだ。
「大輔が死んでしまったのは残念でした。でも、最期まで安永先輩と一緒に過ごせて、大輔は間違いなく幸福だったはずですよ。俺だって」
 行成の目を覗き込みながら、春日井は先ほど中庭で早瀬に詰問していたときと同じ声帯から発せられているとはとても思えない、甘ったるい声で囁いた。
「俺だって、行成先輩の側にいるだけで、不思議なくらい幸せな気分になれるんです。もし引き離されたら、その瞬間に死んでしまうかもしれない」
(こっちが死にそうだ……)
 春日井の台詞を聞いた早瀬がタコのように脱力して、その場にがっくりと両膝をつく。どうしたらシラフでこんな恥ずかしい台詞が吐けるのか、早瀬には本気で分からない。自分の意思でここに来たはずなのに、はや逃げ出したくなってきて、体が自然に扉のほうに向かってしまう。
「でも、俺は人間なんです、安永先輩。そんなに簡単に死んだりしない。寿命も長いし、先輩よりも年下だし、体の頑丈さにかけては誰よりも自信があります。まともに風邪を引いたこともありません。大輔のようにあなたを残して突然死んだりすることは絶対にないと誓います。だから、お願いですから、今までどおり側にいさせて下さい」

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