真摯な言葉を捧げられた行成の目が、大きく見開かれた。いつもは明るく輝いている瞳が、みるみるうちに涙で潤んでいく。なによりも春日井の寿命が犬よりも長いという点が、彼の心を大きく揺さぶったようだった。
「本当に……、本当に俺を残して逝ったりしない?」
しゃくりあげながら行成が聞くと、春日井はためらわずに頷いた。
「はい。誓います」
「俺が甘えたり、甘えさせたりして、べたべたひっついて離さなくても、ストレスを感じたりしない?」
「むしろ望むところです」
「ほんの一日でいいから、俺より長生きしてくれる? 俺が死ぬときは俺の手を握って、涙の雫二つ以上こぼしてくれるんだね?」
「二つどころか、号泣します。
滂沱
の涙を流します」
「俺も、俺もお前のおかげでいい人生だったと必ず言うよ。絶対言うから……っ」
感極まって行成が春日井に飛びつき、自分よりもずっと大きな体をしっかりと抱きしめる。春日井も行成の体に腕を回し、包み込むように抱きしめ返した。
「……なにかの歌で聞いたような台詞だな」
だるそうに机に体重を預けながら土岐が律儀な突っ込みを入れたが、あまりにもかゆい台詞に悶絶している早瀬はすでに言葉もない。必死に耳を塞いでいる両腕には、見本になりそうなほどくっきりと、無数の鳥肌が立っていた。
そんな早瀬の様子に土岐が首をかしげた。強引に耳から手を外させて、抱きしめあう二人を指差しながら尋ねてくる。
「いいのか。あれ、多分このまままとまってしまうぞ?」
いいも悪いも、すでに早瀬は何で自分が行成と春日井の交際(もどき)に反対していたのか、もう思い出せなくなりつつある。
いや、そうだ。俺は行成への友情から、道を誤ろうとしている友を見過ごしにはできず、二人の仲に反対していたんだった。しかし犬と人間の境界線すら引けていないような行成に、いまさら人間同士の恋愛における性別の問題をこんこんと諭して、いったいどうなるというのだろう。今やっとその無意味さがわかった早瀬である。
それでも自分の中の行成への友情のかけらを必死にかき集め、最後にもう一度、早瀬は幸せそうな二人に力弱い説得を試みた。
「春日井いいのか……? お前ユキに犬扱いされているんだぞ」
人間としての尊厳を大事にしろと訴えかけた早瀬を振り返りもせず、春日井は行成を抱き寄せたままどこか外した答えを返してきた。
「俺も犬は好きですから」
「そうじゃないだろっ。そんなに犬が好きなら、犬に告白しろよ!」
「犬に告白していったいどうするんですか」
「それじゃあ獣姦だよー、早瀬」
やっといつもの調子を取り戻して、可愛らしい笑顔にまったく不似合いなことを行成が言い出す。もはやついていけない早瀬は、とうとう天高く白旗を掲げた。
「……もういい。もう勝手にしてくれ。お似合いだ、お前ら」
どうでも好きなようにやってくれと、すでに顔を上げる気力もなく早瀬が告げる。するとそんな彼を更に脱力させるようなことを、行成が唐突に口にした。
「でも獣姦は困るけどさ。春日井は実際、俺のことそういう意味で好きなの? えっちなこととか、俺としたいと思っているわけ?」
あまりにも直球すぎる行成の問いに早瀬が顎を外しかけ、春日井もまた、うろたえた顔を見せた。
「俺といるとき、むらむらしたりするの? 触りたいとか、キスしたいとか」
「ゆ、ユキ、おまえってやつは何てことをっ!」
恥知らずにもほどがあると真っ赤な顔で憤る早瀬をよそに、しかしよく見れば、行成の瞳は案外真剣な光を宿している。
そのことに気づいたのか、春日井もふっと真率な顔をし、少しためらいながらも行成に向かってゆっくりと頷いた。
「俺の全てが先輩のものであるのと同じように、先輩の全てを俺のものにしたいという気持ちはあります。でも、先輩の望まない行為を押しつける気持ちは全くありません。お願いですから、それだけは信じてください」
こんなことを言えば、行成はまた自分を遠ざけてしまうのではないかと、その表情にわずかに怯えを含みながら、しかし春日井は嘘をつくことなく、自分の正直な想いを行成に打ち明けた。そんな彼を安心させるように、行成はやわらかく笑ってみせる。
「うん、もちろん信じているよ。そういうやつだよな、おまえって。むだに生真面目っていうかさ」
そう言うと「ちょっと来てみ」と、行成はちょいちょいと指先で春日井を呼び寄せた。「何ですか?」と近づいてきた春日井の頬にほんの一瞬だけ、行成の小さくてふっくらとした唇が押し当てられる。春日井の体が行成に呼ばれた姿勢のまま、硬直した。
「あのさ。正直、俺はまだお前に対してそういう気持ちはないんだ。でも先のことは何も分からないっていうのが、俺の持論なわけで。だから」
言いながら、どこか挑発するような瞳で、行成は笑った。
「おまえも俺とそういうことをしたいんなら、早く俺をその気にさせてみせろよ」
「それまではこれだけな」と笑って、もう一度、今度は春日井の顎のあたりに、行成が口づける。
行成にしてみれば犬とじゃれあうような他愛ない行為なのだろうが、キスされた春日井は珍しく年相応な顔でおもはゆそうに笑い、「努力します」と頷いてみせた。そんな彼を褒めるように、行成が背伸びして背の高い後輩の頭をなで繰り回す。
「じゃ、そういうことでこれからもヨロシク。あ、春日井、今日の手紙ちょうだい。さっきもらわなかったやつ。俺も放課後に、ちゃんと今日の分を書くからさ。うげー、もうこんな時間じゃん」
騒いでいる間に、昼休みは終わってしまっていたようだ。みんな授業に向かったのか、廊下もいつの間にか静まり返っている。押しかけた野次馬の中には教師もいたのに、問題が片づくまではと、四人をそっとしておいてくれたものらしい。寛大ながら、いい加減な校風である。
「俺たちも早く教室に行かないと。……って、早瀬。早瀬ー? だいじょぶ、生きてる?」
行成が振り返ったそこには、美術室の片隅に置かれた石膏のダビデ像のごとく、硬直してしまった早瀬がいた。いや、その苦悶の表情だけ見れば、ふたりの息子とともに海蛇に締め上げられて、息絶える寸前のラオコーンのようだ。行成と春日井のキスシーンを目撃して、石化してしまったらしい。
「どうしたんだよ、早瀬。置いてっちゃうよ?」
「……放っておいてくれ。俺はもう疲れ果てたんだ。おまえとはもう、付き合いきれない」
「なに言ってんだよ、もう授業始まってるんだよ。だいたい早瀬は今日日直だったじゃん。早く行かないと。おーい」
焦れた行成がその腕を引っ張るが、すっかりぐれてしまった早瀬はその場からてこでも動こうとしない。
「いい加減にしてよ、早瀬ーー!!」
遠慮ない力でバシバシと叩かれても無視し続ける早瀬の肩を、横から伸びてきた手がぐいっと押した。つんのめるようにして、ようやく早瀬の体が一歩前に進む。
「まだユキに未練があったのか? 気持ちはわかるが諦めも肝心だぞ。ほらさっさと歩け」
早瀬の肩を押しながら土岐が言う。そして空いた片手で行成たちの足もとを指差した。
「おまえらはまず昇降口に行って靴を履き替えてこい」
靴のことなどまったく意識になかった行成は、「忘れてた!」と叫ぶと、春日井をつれて慌てて美術室を飛び出して行った。早瀬の体を引きずるようにして、土岐もまた教室に向かって歩き出す。
意外に力のある腕に引きずられてしぶしぶ歩きつつ、早瀬は心の中で毒づいていた。
――「気持ちは分かる」だと? 嘘をつけ。
まさかまだ土岐がそんな
世迷言
を言うとは思わなかった。かすかに残った力まで根こそぎ奪われた気がして、早瀬は鉛のように重いため息を吐く。
土岐の手に包み込まれた肩がやけに熱い。気の迷いだと今でも思いたいのに、間近にある顔を見れば、またしょうこりもなく騒ぎ出す自分の心臓が疎ましかった。
いったい自分のこの想いは、この先成就することがあるのだろうか。
あれば世間的、将来的に困るし、成就しなければそれはそれで悲しい。いずれにせよ、とても自分には今さっきめでたくまとまってしまったふたりのように、自分の想いに正直に振る舞うことはできない。
(なかったことにして、早く忘れるのが何よりだよなあ)
理性はそう告げているのに、簡単には思いきれそうにない自分を、早瀬は自覚している。はたしてこの先どうすればいいのか。答えが見つからず、重い足取りで教室に向かいながら、早瀬は途方に暮れるばかりだった。
――彼の恋が一体どんな行く末をたどるのか。それはまた、別の話となる。
――END――
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