恋は語らず -Chapter.1-
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「――文化祭の時、これと言って見たいものも行きたいところもなく、ただ静かな場所を求めて美術室に向かいました。そこで安永先輩の『夏草』を見ました」
土岐が抑揚のない声でなめらかに手紙を読み進めていく。
『夏草』とは行成が今年初めに描いた油彩画で、あまりのできばえの良さに感動した美術教諭から、何度もくり返し展覧会への出品を勧められたほどの作品だ。しかし賞などにはまったく関心のない行成は、あっさりとその話を断ってしまった。そのため、この作品を知るものは今でもごく限られている。
校舎の奥まった場所に位置しているうえ、三人しか部員がいないため展示作品数が極端に少なく、にぎやかな文化祭期間中でさえ訪れる者のほとんどいない、ひっそりとした美術室。
生来寡黙な性質なためか、祭りの日特有の浮ついた喧燥に馴染めず、逃れるようにこの部屋を訪れた春日井は、その鮮やかな作品に一目で魅せられた。
うっすらと朝靄が立ち込める草原で、朝日にやわらかく照らされ、少年が一人、夏草の中に佇んでいる。ただそれだけの、なにげない光景を描いた絵。
しかし少年を取り囲んだ草むらの、葉脈の一筋一筋までほんのうっすらと描き込まれた、青々とした葉の息づくような生気、一面に散らばる無数の朝露の輝きや、日の光がつくり出す陰影を捉えた筆の冴えは希有なものだった。
そして少年の顔にほのかに浮かんだ、朝を迎えた喜びに満ちた笑み。
その表情の豊かさ、こちらの心まで浮き立つような明るさに、この絵を見たものは誰しも惜しみない称賛の言葉を与えた。
春日井の眼には、その絵がよりいっそう美しく映ったようだ。横書きの、なんの装飾もないシンプルな便箋の表面は、文字でびっしりと埋めつくされている。行成の絵を見つけた瞬間の感動を克明に語りながら、その興奮ぶりを示すように、無骨な文字はわずかに乱れていた。
「こんな絵を描く人がいるんだと。こんな絵を描ける人は、いったいどれほど自分の知らない世界を知っているのかと思い、憧れました。先輩のことをもっと知ることができて、先輩の側にいることができたら、俺にも先輩の眼に映る世界を覗くことができるのでしょうか。先輩の作品が、とても好きです」
普段の彼からは想像も出来ない饒舌さで、春日井は自分の思いを綴っている。最後の一言を土岐が読み上げた瞬間、早瀬が「は、恥ずかしい……」と小さな声を漏らした。春日井の意外なまでの詩人ぶりや、率直さに堪えきれなくなったらしい。
そんな早瀬の目の前に、土岐が手に持った便箋を突きつけた。
「おい、目を逸らしていないでちょっとこれを見てみろ、早瀬」
「嫌だ。そんな恥ずかしい手紙を直視したら、絶対に脳が腐る」
「四の五の言わず、いいから見てみろ」
なぜこうまで勧めてくるのか不審に思って、気が進まないながら早瀬が渋々と視線を上げた。数秒間便箋を凝視したあと、ぽかんと口を開ける。
「……おい、この手紙って、もしかして文化祭のときの」
「春日井がユキによこした一通めだな。見覚えがあるだろう」
たしかに見覚えはある。出だしから「好きです」の一文が踊っていて、自分たちを仰天させた手紙だ。しかし、これは……。
早瀬はそこでようやく、今までの自分の思い違いに気づいた。
「――これ、手紙の二枚目じゃないかよ!?」
そう、便箋は二枚あった。最初の一枚はびっしりと文字で埋まり、その文章に続く最後の一言が、残りの一枚の冒頭に記されている。「先輩の作品が」に続く、「とても好きです」の部分だ。早瀬は思わず素っ頓狂な声で叫んでしまった。
「てことは、春日井はユキの絵や価値観が好きで惚れ込んだってだけで、別に愛とか恋とか、そういう感情を持っていたわけじゃなかったってことか!?」
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