恋は語らず -Chapter.1-

7

 翌日の昼休みも、行成の姿は教室になかった。
 土岐と向かい合わせに座り、仏頂面で弁当をかき込む早瀬のすぐそばには、窓に張りつくようにしてなにかを指差しながら騒いでいる生徒たちの姿がある。
「ひ、ひざまくら……?」
「男の膝に、膝枕……。恥というものはないのか、あいつら」
「さすが行成。俺には真似できねぇ。ていうかしたくねぇ。しかも相手はあの春日井…………」
 彼らの視線の先には、中庭のベンチで仲睦まじく休み時間を過ごしている男同士のカップル(にしか見えない)の姿があった。
 並ぶもののない無口、無愛想、無表情ぶりで、一年生とは思えない存在感をまき散らしている春日井に、よりにもよって膝枕などさせているのは、目立つ早瀬や土岐と常に行動を共にしているせいもあって、校外にまでその存在が知れ渡っている行成である。
 その光景は昨日の放課後早瀬を逆上させたものと全く異ならなかったが、校内にひと気が少なかった昨日とは違い、今日はほぼ全校生徒がこの真昼の情事(と、外野は受け止めている)を目撃している。騒がれるのも無理はなかった。
「――昨日のお前と一言半句、同じことを言っているな」
 早瀬の机に片肘を突いた土岐が、級友たちの言葉を聞いて感心したように呟く。行成の行動を止めることにすでに昨日失敗している早瀬は、ヤケ食いを続けながら答えた。
「そうだ。俺は大衆の意見を代弁しているんだ。俺の意見が世間のルールなんだ。それなのに耳を傾けようともせず、あの馬鹿は公衆の面前であんな恥さらしな真似を……」
 仮にも友人である男のとんでもない姿を見るのも嫌で、窓の外にはけっして視線を向けないまま、早瀬は割り箸をギリギリと噛み締める。
「ルールも何も、ユキも春日井もこれっぽっちも気にしていないからな。素晴らしい潔さだ。さすがの俺も、あそこまではできないかもしれない」
「やるなよ。だいたいお前が誰の膝に眠るんだ」
 あきれながら何気なく視線を上げた早瀬は、すぐ間近に座っていた土岐と不意打ちで眼が合ってしまいしまい、食べかけていたおかずを「うっ」と喉に詰まらせた。
 眼鏡越しでも、これだけ近い距離なら土岐の瞳の綺麗さはよく分かる。昼間の明るい教室にいるせいか、昨日よりも幾分色が淡く思える瞳に、長い睫が影を落としていた。
 目の前の、滑らかで艶のある髪に触れたいという衝動が、ふいに湧き上がる。短く整えられた髪は、手を差し込めばきっとどこにもひっかかることなく、サラサラと梳かすことができるだろう。
 眼鏡を外した無防備な顔の土岐が自分の膝に身をゆだねる姿を想像してしまい、早瀬は訳も分からず動転した。
(い、一体何を考えているんだ、俺は……っ!)
 耳まで真っ赤に染めてきょときょとと落ち着きなく視線を動かす自分を、土岐がうろんな目で見ていることが分かるから、余計にどうしていいか分からなくなる。
 そもそもどうして土岐が膝枕をする側でなくされる側なのか、早瀬の考えていることを知ったら、まずその点を本人から突っ込まれそうなものだが、さすがにそこまでは土岐にも知る由がないようだ。
「実美(みみ)、まゆちゃん、美由紀さん、智子さん……」
 なんとか平静を取り戻したい一念で、早瀬はいま付き合っている女たちの名前を念仏のように無心に唱えた。不審なことこの上ない姿である。するとすぐ近くに立っていたクラスメートがその呟きを聞きとがめ、眼を剥いて振り返った。
「なんだ、その女の名前。おまえもしかして、その全員とつきあっているんじゃないだろうな!?」
 そう叫ぶや否や、モテない男の悲哀からか、ごつい腕でいきなり早瀬の頭を張り飛ばす。自分の思考にのめりこんでいた早瀬もこれにはさすがに正気に戻り、席を蹴飛ばして立ち上がった。
「てめっ……っ、いきなり何しやがる、大塚ぁっ!」
「うるせえ、このスケコマシが! 限られた貴重な資源を、ひとりで無駄遣いしてんじゃねえぞっ」
「こまして悪いか。大体女を資源′トばわりしたりすっから、おまえはモテねんだよ!」
「んだと、コラァ!」
「なんだ、コラァ!!」
 口汚く罵り合って互いの胸倉をつかみ合う。そのとき、窓にはりついて騒いでいた生徒たちがいっせいにどよめき、ザッと窓辺から体を引いた。
「な、なんだあの一年の目線」
「なんか仕込んであるんじゃないか……?」
「目をつけられた。俺はきっと殺される」
 冷汗をだらだら流しながら、真っ青な顔でそんなことを呟き合っている。早瀬と大塚は拳を中途半端に振り上げたまま、怪訝な顔を見合わせ、そろって窓の外に眼を向けた。
 ――大きくなる一方の野次馬たちの声に行成がうるさそうに眉を寄せ、小さく身じろぎした途端、これまで周囲など気にも留めていなかった春日井が表情を一変させたのだ。
 頭だけを背後の校舎に振り向け、「それ以上騒いだら容赦しないぞ」という険しい意思を込めて、野次馬たちをぐるっと見据える。
 殺意のこもった獰猛な眼光の効果はすさまじく、春日井と眼が合ってしまった生徒たちは全員震え上がり、校舎は瞬時にして水を打ったように静まり返った。再び規則正しい寝息をかきはじめた行成の髪を、一瞬前の迫力が嘘であったかのような優しさで、春日井がゆっくりと撫ぜる。
 何事もなかったように仲睦まじく膝枕を続けているふたりの姿を眼下に見つけた早瀬は、いったい何があったのかと首を傾げた。
 そのままなんとなくぼんやりとふたりの姿を眺めているうちに、頭の片隅に「うらやましい」という思いがよぎる。そしてすぐにそんな自分の思考の不自然さに気づき、愕然としてその場にしゃがみこんだ。
(なにが、いったいなにが羨ましいんだよ、俺!)
 昨日は心底引いてしまったはずの光景だ。うらやましいも何もない。
 混乱しつつ振り返れば、そこには周囲の騒ぎになど何の関心もない様子で自分の席で静かに本を読んでいる、見慣れた土岐の姿があった。ひとり取り乱している早瀬にも気づかない、……というよりも、なんの関心も払っていないように見える。
 本から眼を離さないまま、土岐が机の上にあったペットボトルのお茶を取り上げ、口に含む。その仰のいた喉や、濡れた口許を目撃した瞬間心臓が大きく高鳴って、早瀬は慌てて土岐から視線をもぎ離した。だが一度走り出した鼓動は容易には止まらない。
 いったい自分の中で今なにが起こっているのだろうか。考えるのが怖くて、早瀬は胸に手を当てながらぶるりと大きく身を震わせた。

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