恋は語らず -Chapter.1-
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それ以上行成を思い留まらせる言葉をひねり出せなかった早瀬は、結局憤然としてその場を去るしかなかった。
「邪魔して悪かったな」と残る二人に声を掛けてから、土岐もその背中に続く。横になったまま、能天気な笑顔で「あとで一緒に帰ろうねー」と手を振った行成に土岐は軽く手を上げ返したが、早瀬は当然振り返りもしない。
その足先が向かっている場所がどうも校内ではないことに気づいて、土岐は早瀬に声を掛けた。
「なんだ、部室には戻らないのか」
「こんな悲惨な気分のまま、いったい何を描けって言うんだ。このままじゃ、俺はムンクの『叫び』以上の傑作を描いちまいそうだ。ちょっと体を動かすから、お前も付き合え、土岐」
「サッカー部に顔を出すのか? 今日は活動しているかな」
二人は美術部と掛け持ちでサッカー部にも所属している。しかし数年前に部員が不祥事を起こし、活動を自粛していたことがあったとかで、人気競技であるにも関わらず、サッカー部はほかの運動部に比べると規模が小さかった。大会などでもこれといった成績を上げていないため、活動したくてもほとんどグラウンドを使わせてもらえない。
試合をするには部員数が足りないせいもあり、たまに集まった暇な連中でグラウンドの片隅を使ってのんびりとミニゲームに興じるのが、この部活の実態だった。そのため、決まった活動日すらない。
「誰もいないかもしれないから、お前につき合わせるんだろうが。大体俺があんなに一方的にやられちまったのも、ひとえにお前が非協力的だったからだぞ。少しは償え」
強引な論理の押しつけに土岐は軽く肩をすくめたが、特に文句はつけず早瀬のあとに従う。
校舎脇の道をまっすぐ進むと、すぐ校庭が見えてくる。周囲を木とフェンスに囲まれているせいで見通しが悪かったが、そこで練習しているのが野球部と陸上部だけだということはすぐに分かった。早瀬が口の中で軽く舌打ちした。
「ちぇっ、やっぱり誰も来てねえや」
ぼやきながら用具室に入り、表面が荒れて毛羽立ったサッカーボールを籠から取り出す。小脇にそれを抱えて外に戻ると、つけっぱなしだった絵画用のエプロンを外し、無造作に近くの鉄棒に掛けた。
ボールをぽんと放り投げて落ちてきたところを足先で受け止め、リフティングしながら早瀬は土岐ににやりと笑いかける。
「一対一で、ボールの取り合いをしようぜ。最終的に負けたほうが、帰りにコンビニで肉まんをおごるってのはどうだ」
「俺は唐揚げチキンがいい。おまえが買ったら肉まん、俺が勝ったら唐揚げチキンだ」
自分も上着を脱いで鉄棒にかけ、そのポケットに外した眼鏡を入れながら土岐が応じた。
「ずりぃ、単価が違うじゃねえか。あっ!」
コントロールが狂って地上に落としてしまったボールを、土岐が滑らかな動きで奪い去った。そのままグラウンドの片隅にある、何箇所も網が破れたサッカーゴールに向かって走り出す。
「っのやろ!」
素早く追いついてきた早瀬が後ろからチャージを仕掛けるのを、見透かしていたように体を逸らして土岐が避けた。ふたりの動きに合わせて、乾いた砂埃が舞い上がる。すぐに激しいボールの奪い合いが始まった。
――肺が悲鳴を上げている。激しく息を切らしながら、早瀬は力尽きてグラウンドに転がった。胸を大きくあえがせ、下から土岐を睨みつける。
「お、お前っ。なんで頭いいのに、運動、神経まで、いいんだよ。いつも思うけど、サギだっ……」
苦しげに言ったその足もとには、最後までどちらもゴールに放り込むことができなかったボールが転がっている。
結局、勝負は引き分けに終わった。
早瀬のエプロンと自分の上着を手に戻ってきた土岐が、やはり肩で息をしながらも皮肉気な笑みを浮かべて、早瀬の体の上にパサリとエプロンを落とした。
「お前はすぐ頭に血が上って、余計な動きをしすぎるんだ。冷静に対処しさえすれば、止めることはそう難しくない」
そう言うと土岐はポケットから眼鏡を取り出し、レンズをハンカチで拭きはじめた。滅多に見る機会のないその素顔を、早瀬は寝転がりながらなんとなく見上げた。
普段は意識もしないが、こういう角度で見ると土岐のまつげの長さはやけに際立つ。
派手ではないがよく整った理知的な顔に、「頭と運動神経と、ついでに顔にまで恵まれやがって、こいつは」と、早瀬は内心でひがんだ。
自分も運動神経と顔には自信があるのだが、頭脳に関しては土岐よりも劣っているという自覚がある。教科によってはいい線をいっていると思うのだが、いかんせん、各教科の出来不出来にムラがありすぎるのだ。
一方、理系文系かかわらず、常に各教科の成績上位に君臨している男は、いつまでも寝転がっている早瀬を見下ろし、身を屈めて言う。
「早く立てよ。制服の汚れが落ちなくなるぞ」
距離が近づくと、土岐の額を汗が伝っているのがはっきりと見えた。前髪が張りつくのがうっとうしいのか、無造作に髪をかき上げている。
早瀬にとって素顔でいる土岐も、髪を上げた土岐も、まともに見るのはこれがほとんど初めてだった。それどころか、この友人の顔をこれほどまじまじと眺めたことが、これまでなかったかもしれない。
こいつ、こんな顔をしているんだなと今更ながらに思って、早瀬は立ち上がりもしないまま、目の前の端正な顔になぜだか少し見入ってしまった。そんな早瀬に業を煮やしたのか、ワイシャツの胸元をつかんで、土岐が強引に早瀬の体を起こそうとする。
互いの距離が一瞬ひどく近くなり、相手の瞳を覗き込むような形になって、早瀬は前触れもなくドキッとした。近視のせいだろうか、土岐のやわらかな茶色の瞳はしっとりと潤み、驚くほど綺麗で、どこか無防備にさえ見えることにこのとき初めて早瀬は気づいた。
「ユキが部室で待っているんだ。ボケていないで、早く立て」
そんな早瀬の内心など知るはずもなく、そう言い捨てると土岐がなんの未練もなく体を離す。
いつの間にか、校庭に設置されたスピーカーから下校放送が流れ始めていた。見上げた空はすっかり日が傾き、かわりに気の早い星たちがうっすらとまばらに輝き始めている。
夕焼けに照らされて茜色に染まっていた周囲も、もうすっかり影が濃くなっていて、練習を終えてクラブハウスに引き上げていく野球部や陸上部員の後姿が、遠くのほうに見えた。
早瀬を立たせると土岐は拭き終わった眼鏡をかけ、手櫛で髪を整えて、汗の引いた身体に上着をきっちりと着込んだ。あっという間に見慣れた、どこにもつけ込む隙のない姿に戻ってしまった土岐をなぜだか少し惜しみながら、早瀬は制服にこびりついたグラウンドの土を適当に叩き落とした。
「……そうだな。早く戻らないとな」
上の空で答えながらも、胸の奥が変にざわざわする。それが何によるものかすらよく分からないまま、不可解な気持ちを押し込め、早瀬は土岐とともに校内へと急いだ。
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