琥珀色【前編】
21
「……!」
まさかと思いながら、庄司はまろぶように扉に駆け寄った。ひょっとして帰ってきてくれたのだろうか。彼が、この部屋に。
「牧野さん!?」
ドアを開けると雪で眼鏡を真っ白に曇らせ、髪を風にぐしゃぐしゃに掻き乱された牧野がそこに立っていた。冷気が室内に流れ込み、室温が急速に下がっていく。
「牧野さん、一体何故……」
長谷川のもとには行かなかったのだろうか。半日も経たずに彼が戻ってきたことが信じられず、呆然と立ち尽くす庄司の脇を無言ですり抜けて、牧野が室内に入る。反射的に振り返って彼の体に手をかけた庄司は、牧野が身に纏うコートが氷のように冷え切っていることに気づいて驚いた。
「――ヒーターの側に寄ってください。早くコートを脱いで。すぐに風呂の用意をしますから」
何も言わずにじっと唇を噛んでいる牧野に何があったのかと案じながらも、あれこれと世話を焼く。次第に体温が戻ってくると、麻痺していた体が寒さを感じられるようになったのか、牧野は最初は小刻みに、次第に大きく震え出した。
「寒いんですか? 大丈夫ですか、牧野さん」
とりあえず少しでも体を温めなければと適当な上着を羽織らせようとして、一瞬かすめた牧野の手が血の気を失ってひどく冷たくなっていることに気づき、庄司は胸を痛めた。思わず自分の両手で包み込むようにしてやると、牧野が弱い力でその手を握り返してくる。
「……長谷川さんのところに、行かなかったんですか」
躊躇いながらも我慢できず、遠慮がちに庄司が尋ねると、牧野の唇が皮肉げな嗤いに歪んだ。
「行ったよ。おまえに言われたとおり、ちゃんともう一度やり直せないかって、頭を下げてきた」
「それじゃ、何で……」
尋ねた瞬間、牧野が射殺しそうな眼で睨んできた。
「振られたからに決まっているだろう。俺とだけはやり直すことができないって、はっきりと岳に拒絶された」
「……」
思いがけない言葉だった。牧野から頭を下げて、あの優しげな長谷川が拒むことなどあるわけがないと思っていた。十年間関係を続けた恋人を、少しの優しさもなく拒むような人間にはとても見えないのに、それも自分の勝手な思い込みだったのだろうか。
牧野が戻ってきてくれた喜びはあったが、寒さと傷心で紙のような顔色をしている彼を見ると、哀れさのほうがはるかに勝った。自分の熱を分けるようにその体を胸元に抱きこむと、俯いたまま牧野が激しく詰ってくる。
「おまえのせいだ。おまえが余計なことを言うから、聞きたくない言葉まで聞かされて……っ」
手が白くなるくらい強い力で、シャツの襟元を掴まれる。庄司は何も言えず、ただ力を込めて牧野を抱き締めた。言葉にできない想いを、そうすることで伝えられるならどんなにいいだろう。このまま腕の中の体を離したくないという思いが、胸にこみ上げてくる。自分が牧野に対して抱いている思いがなんであるのか、もう庄司は認めずにはいられなかった。
愛しかった。このわがままで自分勝手な男のことが、不思議なくらいに愛しくて仕方なかった。
ぎゅっと、精一杯の思いを込めて牧野の背を抱き寄せる。その力の強さに驚いたように見上げてくる視線を逃れて、自分より少し低い位置にある肩に深く顔を埋めた。ずっとそうしていたかったが、抱え込んだ体がまだ震えていることに気づき、庄司はこみ上げる衝動をなんとかこらえると、静かに身を放して優しく牧野の肩を浴室に向けて押し出した。
「……話はあとでいくらでも聞きます。だから、今はとにかく温まってきて下さい」
落ち着かないまま牧野が風呂から上がるのを待っていた庄司は十数分後、ようやく出てきた牧野の姿を見て驚いた。扉の隙間から彼がいつも着替えに使っているシャツとパンツを差し入れておいたのに、牧野がそれらを身に着けず、裸体にバスタオルを腰に巻いただけの姿で立っていたからだ。
ろくに体を拭ってもいないのだろう。水滴の浮かぶ肌を見て、庄司の体をはっきりとした欲望が突き抜ける。急に喉の渇きを覚えて、庄司は牧野から無理矢理視線を逸らした。懸命に理性を制御し、何とか普通の表情を装いながら言った言葉は、自分でも笑えるくらいに掠れていた。
「着替えが、何か足りませんでしたか? そんな格好じゃ風邪を引くから、もう一度風呂場に戻って……」
最後まで言い終わるのを、牧野は待たなかった。狭い部屋を真っ直ぐに突っ切って、半裸のまま庄司の前に立つ。まだその髪は湿り気を纏い、肌には水滴がいくつもこびりついて滴り落ちていた。眼鏡を外し、遮るものが無くなった視線がギラギラと庄司を睨み据えてくる。無言のまま牧野は庄司のうなじに手を回すと、体を引き寄せて唇に唇を強引にぶつけてきた。
驚きのあまりぽっかり開けてしまった唇の隙間から、すぐに熱い舌が潜り込んでくる。挑発するように口中を掻き回された。突然の事態が理解できず動転しきった庄司は、焦点が合わないほど近くにある牧野の目尻から、細く涙の雫が伝っていることに気づいて小さく息を呑んだ。
やがて思うさま庄司の口中を貪り尽くすと、わずかに体を離しながら、濡れた唇を拭いもせずに荒い呼吸で牧野が突きつけるように言い放った。
「俺がおまえのタイプじゃないのは分かっている。でも遊びならいいだろう」
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