琥珀色【前編】
20
それから、牧野は物思いに耽ることが多くなった。ちょうど仕事が端境期に入ったようで、これまで以上に頻繁にこの部屋に通いながらも、しょっちゅうぼうっとしているかと思えば、時折ふいに座っている庄司の背中によりかかってきたり、やけに近くにいたがったりする。長谷川の別居報道後も牧野の足が遠のく気配がないことに最初は安堵していた庄司だったが、そんな牧野の態度に、次第に苛立ちのほうをより多く募らせるようになってきた。
庄司の中に長谷川の影を求めて牧野が親しげに接してくれば接してくるほど、焦りとも苛立ちともつかない思いが腹の底から湧き上がり、庄司から平静さを奪う。そんな庄司の内心にはまったく気づかず、ただ自分の殻にこもっている牧野を憎く思うことさえあって、いつかこの苛立ちを牧野にぶつける時が来てしまうのではないかと、庄司は密かに恐れるようになっていた。
自分でも自覚の無いうちに、溜め込んだ鬱屈が限界を超えていたのかもしれない。
吐いた息がその場で氷に変わって崩れ落ちてしまいそうな、一際ひどく冷え込んだ、一月も終わりに近いある日。休日で部屋にいた庄司の横にうずくまり、いつものようにぼんやりしていた牧野がその日何度めかのため息をついたとき、咄嗟に庄司はわずかに荒れた声で口走っていた。
「――長谷川さんに、会いに行けばいい」
「え……?」
「毎日毎日、そんなに気になって仕方がないなら、長谷川さんに会って直接話をしてくればいい」
唐突な庄司の言葉が理解できなかったようで、牧野は呆然とした顔になった。二三度瞬きしてから、ようやく意味が通じたように、みるみるその表情を強張らせていく。
「長谷川さんも、きっと牧野さんを忘れられないから、別居に踏み切ったんでしょう。許しを請えば、あの人ならばきっと受け入れてくれるんじゃないですか」
じかに長谷川に会ったことなど無い。しかし舞台で、スクリーンで、画面の向こうで、覗き見る豊かで奥行きのある表情は、そのまま彼の人格を表しているように思えた。長谷川は牧野が惚れ込むほど度量が広く、そして優しい男なのだろう。
「――あなたも、もう一度やり直したいんでしょう?」
胸がきりきりと痛んだ。牧野をそそのかす言葉を紡ぎながらも、言った次の瞬間にはもうその言葉を取り消したくなる。まるで一貫性なく惑乱する自分の心を制御することができない。荒れ狂う胸の奥底を読まれないように敢えて無表情を貫く庄司を、牧野は張り詰めた面持ちでじっと眺めていた。しばらくして、ぽつりと呟く。
「俺がここに居ることが、迷惑なのか?」
「そんなことは、けして……」
以前も同じことを聞かれたことがあった。そしてあの時は、牧野の存在は確かに迷惑以外の何物でもなかった。しかし今は違う。できるならばずっとここに居て欲しい。だが、体だけがこの場所にあっても、それが抜け殻であれば虚しいだけだった。
真実の牧野にいつもこの場所にいて欲しいと思うこの気持ちが単なる独占欲なのか、それとも他の感情から兆すものなのかは、庄司には未だによく分からない。もしかしたら、ほかの人間に心を傾ける牧野を相手に、分かりたくないと思っていたのかもしれない。
牧野は長い時間口を閉ざして考え込んでいた。何度も何度もためらうような仕草を見せ、それでも結局最後には、庄司の目を見ながら小さく頷いた。
――――長谷川にはすぐに連絡がついた。牧野が彼の携帯電話の番号を知っていたからだ。そして長谷川もまた、牧野と別れてから一年が経つのに携帯を変えず、結婚後も牧野の電話番号を登録したままでいたようだった。庄司にはそのこと自体が、牧野に対する長谷川の未練を表しているような気がしてならなかった。
牧野が携帯の電話口に向かって「会って話したいことがある」と言うと、少し迷うような沈黙のあと、長谷川のほうから待ち合わせの場所を指定してきた。言われるがまま頷き、牧野は通話を切るやすぐにその足で部屋を出て行った。あとには庄司一人が取り残される。
牧野を送り出してから間もなく、灰色がかった暗い空から、雪がちらつき始めた。
部屋の窓から空を見上げ、傘を持たせてやればよかったと庄司が悔やんでいると、雪は日暮れごろから本降りになり、風も強くなってきて次第に吹雪の様相を呈してきた。テレビをつければ、高速道路が通行止めになっただの、電車が大雪のために運行を中止しているだのと、そんなことばかりを言っている。
この雪だ。牧野は今日はもう、ここには帰ってこないかもしれない。そもそも、この部屋は彼の仮の避難所にされていただけなのだから、帰ってこないのは今日だけではないのかもしれなかった。これからは再び、長谷川のいる場所が彼の帰る場所になるのかもしれない。
そう思うと牧野を案じながら、彼のために空模様を気にしている自分が急に馬鹿らしく思えてきて、庄司は勢いよくカーテンを引くと窓辺から離れた。
ヒーターの温度をめいっぱい上げているはずなのにやけに寒さを感じた。あの人がいないせいだと思う。この閉ざされた空間に、いつもいつも押しかけてきて図々しく居座っていた。そして庄司がその存在の温かさに慣れきってしまった今になって、彼は昔の恋人のもとに行ってしまった。いや、行かせてしまったのは自分なのだと、庄司は口許に自嘲めいた笑みを刷く。
たまらずに、少しでも気を逸らしたくてテレビをつけた。ろくな番組をやっていなくてすぐにビデオに切り替え、いきなり画面に大映しになった長谷川の顔に驚いた。いつだったか、牧野が入れたビデオがそのままになっていたらしい。録画には最近はもっぱらDVDを使っているため、ビデオデッキは手付かずのままになっていた。
今はとても長谷川の姿を見たいような気分ではないのに、流れ出したビデオを止めることが何故かできなかった。テープが擦り切れるほどに何度も見て、保存用に何本もダビングして、頭から台詞を暗誦できるほど馴染んだ舞台の映像なのに、これまで見たときとはまったく違う印象を受ける。
しばらくすると、舞台上に今より大分若く見える牧野と、ヒロインの女優が姿を現した。すぐに長谷川と牧野の激しい台詞の応酬が始まる。長谷川が演じる男が、いつまでも別れた恋人を諦めきれないでいる牧野演じる男に、失われた愛を求めるのはもうやめろと説得する場面だ。おまえの愛した女はもう自分の恋人なのだからと言って、そこに無理に割り込もうとすることの無意味さを知らしめようと、言葉を尽くしている。
『――あなたは金色の樹液の中で息絶えて、永遠の夢を見ている虫のようだ』
長い髪をした恋人を腕の中にかばうように抱きながら、情の深い眼差しをした男が告げた。
『樹液が
こ 凝った透明な石の中から見える世界は薄く色づき、ひどく美しくて、あなたはその光景に見とれたまま、けして外に出ようとはしない。でも所詮、それは幻の世界だ。あなたは本当の世界と形だけ似ていて、実際にはまったく違う色をした美しい世界に見惚れたまま、動けないでいる哀れな一匹の虫に過ぎない』
別れた女を追い続ける男は、薄い笑みを浮かべて、自分に向けられる言葉を聞いていた。その瞳はあくまで純粋で、濁りが無かった。
『そうかもしれない。俺は彼女が俺のことを愛してくれていたころの、まだ何もかもが美しかった世界に戻りたくて、思い出に必死にすがりついているだけの哀れな虫けらかもしれない。でも一度石の中に閉じ込められた虫は、二度と外界に出ることはない。外に出られるのは、自分を閉じ込めている美しい石が割れた瞬間だけだ。そのときには、中に閉じ込められた虫もともに、粉々になって砕け散るしかない。それが俺の運命なんだよ』
熱に浮かされたような声が、張り詰めた空間に散る。舞台上で女を挟みながら対峙する二人は、燃えるような目で互いだけを見詰め合っていた。
この頃から、牧野は長谷川と付き合っていたと言っていた。では、この舞台が引けたあとにも、二人は体を重ねたりしたのだろうか。
このときだけではない。十年もの間恋人として付き合って、一体牧野は何度長谷川と睦みあったのだろうか。もしかしたら、今このときにも、再会した二人は互いの愛を確かめ合っているのかもしれない。そう考えた瞬間、庄司を襲った感情は紛れもなく嫉妬と呼べるものだった。
そのとき、自分の思考に沈み込んでいた庄司の耳に、何かを叩きつける音が飛び込んできた。風の音に掻き消されて最初はよく聞こえなかったその音は次第に大きくなり、庄司は驚いて背後を振り返る。よほど激しく叩いているのか、軋むような音とともに、眼に見えるくらい大きく玄関扉が震えた。
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