琥珀色【前編】
19
「そんなに好きなら、どうして……」
しばらく空間を沈黙が支配する。答えてはもらえないのかと庄司が諦めかけたころ、牧野が小さく呟くように言った。
「――写真を撮られたんだ」
「……写真、ですか?」
「写真週刊誌の記者に、俺が岳にキスしてたところを写真に撮られた。酔っ払って、ほんの悪ふざけのつもりだった。……そのころ、俺はちょうど大きな仕事が決まりかけていて、事務所は何としてでもスキャンダルを避けるために、無い袖を振ってその記者に大金を支払って口封じをした。一度はそれで片がついたけど、それから時間が経つほど、俺は不安になってたまらなくて……」
珍しく牧野は饒舌だった。身のうちに溜め込んだものをすべて吐き出すように、早口で語り続ける。
「ネガも写真も買い取ったけど、まだあの記者が焼き増しした写真を持っているかもしれない。それが一度でも記事になったりしたら、付き合いが長い分、俺と岳に関するネタなんていくらでも出てくるだろう。そうなったらもう、隠しようがない。――これから一生、後ろ指を指されながら生きていくことになるかもしれないと思った。道を歩いても、テレビに映っても、みんなが俺が同性愛者だと知っていて、蔑んだ眼で見られるのかと思ったら、怖くて怖くて、もう生きていけないと思った」
恋を失っても生きてはいける。それでも世間にはじかれては生きていけないと牧野は思いつめた末に、そのときたまたま自分に気のある素振りを見せていた女に逃げ道を求めた。
「大人しくて、何も知らなさそうな女で、こいつならたとえセックスができなくたって、付き合えるんじゃないかと思ったんだ。女と付き合うことさえできれば、ずっと付きまとっていた後ろめたさも、疎外感も忘れられると思ったら、止まらなくなった。一秒でも早く楽なほうに逃げてしまいたくて、プロポーズして、あの女もそれを受けて、やっと少し安心できて……」
牧野と長谷川の情事を撮影した記者は、牧野が案じたとおり、焼き増しした写真をしっかり別に取ってあったという。そのことを知り、牧野はいよいよ長谷川との恋を諦める決意をした。長谷川のことを思い切るのは身を裂かれるように辛かったが、他にどんな道もあるとは思えなかった。
しかし長谷川は、自分たちの関係と、そして何よりも牧野の臆病な心を守るために、彼が何を考えているのかも知らず、その写真を取り返すため必死で駆け回っていたという。
「俺がスキャンダルを恐れるから、散々苦労して危ない橋も渡って、写真を記者から取り返してきてくれた岳に、その場で俺は言ったんだ。『女と結婚するから、別れてくれ』って」
今となっては、自分がどれだけ愚かなことをしてしまったのかが分かっているのだろう。償いようのない自らの過ちを悔いるように、牧野が顔を両手で覆って深く俯く。
恋人に突然別れを乞われた長谷川は、言葉を失って呆然と立ち竦んでいた。彼は何も知らなかったのだ。そしてそんな彼に、牧野は更に追い討ちをかけた。
「岳に、おまえも結婚しろって言った。俺だけが結婚しても、あいつがずっと独身のままだったらいずれ秘密がばれてしまうから、だからおまえも結婚しろって……」
そこまで長谷川に勝手を言いながら、それでも牧野はまだどこかで侮っていた。長谷川はいつでも自分を愛し、守り、許してくれた。どんな馬鹿なことをやっても、優しく笑って傍にいてくれた。だから今回もそうなるだろう、と。
怒られるかもしれない。説教のふたつや三つは食らうかもしれないが、最後にはきっと許してくれるだろう。たとえ自分が結婚しても、変わらず彼は自分を抱きしめてくれるだろうと、長谷川の優しさに麻痺しきった心は思っていた。
思惑どおり、長谷川は牧野のわがままを受け入れた。しかし彼はすぐにその場を立ち去って、二度と牧野の許に戻ることはなかった……。
告白を終えた牧野は、泣き出す寸前の顔で自嘲気味に唇を歪めた。
「馬鹿な話だ。どうして許されるなんて思ったんだろう。俺は自分の思い上がりのツケを払って、あいつに振られたんだ」
あまりにも愚かな話だった。臆病のあまり自らで自らを追い詰め、周りが何も見えなくなった末に犯してしまった過ちを苦く振り返り、牧野は眉間に寄せた皺を一層深くする。
「――あいつを失って、引き換えに俺は安定した生活を手に入れた。仕事も今でも順調で。だけど、今の俺には何もない……」
牧野が搾り出すように苦しげに言った言葉が、胸に激しく突き刺さる。ならば今ここにいる自分という存在は、彼にとっていったい何なのか。叫ぶようにそう思うのに、答えを聞くのが怖くて問い詰めることもできない。小さく震える牧野の肩先を言葉もなく見詰めながらも、痛みは庄司の胸にただ深く食い込んでいくばかりだった。
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