琥珀色【前編】
18
結局その日、ふたりは一日中気まずい思いを抱えながら過ごすことになった。
その夜も牧野はいつも通りに庄司の部屋に泊ったが、翌朝は気まずさを引きずってか、珍しく携帯に連絡が入る前に自分から起き出して、まだ外が暗いうちに部屋を出ていってしまった。
牧野の後姿が扉の向こうに消えると、すぐ庄司は慌しく部屋の片づけを始めた。押入れに隠してあった書類のうち、捨てて構わないものは細かく裂いて処分し、どうしても捨てられないものだけを会社の自分の机に移すためにバッグに詰め込む。
キッチンの机の片隅に無造作に置いていた、仕事用にも使っているノートパソコンにははじめてパスワードを設定し、仮に牧野が弄ることがあったとしても絶対に中のデータを探れないように、入念にセキュリティをチェックした。
出勤までの短い時間で、庄司はこの部屋の中にある、自分の仕事が分かってしまいそうな痕跡を思いつく限り徹底的に消した。何度も何度も神経質なまでに部屋の中を確認して、ようやく少し息を吐く。
皮肉だなと思った。
牧野が長谷川の面影を求めて自分の部屋に通っていたことを知り、そのことに衝撃を受けたことで、庄司は自分の中にいつしか育っていた牧野への執着を自覚してしまった。
たとえ牧野がどんな理由でこの部屋に通っているとしても、彼を手放したくは無いと思う。すっかり馴染んだ彼の存在無しに、今更この部屋で一人過ごすことは考えられなかった。
明日にでも、牧野はひとりになった長谷川の許に行ってしまうかもしれない。そうされてしまえば庄司には引き止めようもないが、しかしせめて他の理由で牧野が離れてしまうことだけはないようにと、庄司は部屋の中を片付けたのだった。
閉ざしていたカーテンを開き、窓を開けると、突き刺すように冷たい風が吹きつけてくる。目に痛いほどの快晴だった昨日とは打って変わり、今朝は空一面に綿を薄く敷き詰めたような曇天だった。シェード越しに見る明かりのように、のぼったばかりの太陽の丸い光が、白い雲の向こうにぼんやりと滲んでいる。
それがまるで今の自分の不安を象徴しているように思え、庄司は凍えるような寒さにも関わらず、しばらくそのままじっと曖昧な光を眺め続けていたのだった。
――――いつ現れなくなってしまうかもしれないという庄司の危惧に反して、牧野はそれからも毎日のように部屋を訪れた。ただあれ以来、お互いが何となく気詰まりな思いをしてしまうのは仕方がなかった。お互いに自分たちの関係の脆さに気づいてしまったような、それでもそれを必死で守ろうとするような、奇妙な緊張感がふたりの間に常に張り詰めるようになった。
ここ数週間で、SARABAからもすっかり足が遠のいた。牧野が来ないと分かっている以上、形だけの取材を続けても実際のところ意味はなかったし、店にいる間に牧野が自分の部屋を訪れているかもしれないと思うと、少しでも早く家に帰りたくなって、居ても立ってもいられなくなってしまうからだ。
堀内に毎日のように取材の進行具合に関して聞かれ、はかばかしい進展がないことで不興を買いながらも、庄司は今となってはただひたすらに、この取材の担当から外れたいと願っていた。取材を続けている以上、まだ何も知らない牧野を欺いている罪悪感は常に付きまとって、庄司をひどく苦しめていた。
そんな後ろ向きな気持ちが伝わったものか、年が明けて早々に、庄司は牧野の取材から外された。替わりに担当を任されたのはやぎし矢岸という名の小柄で小太りの中年男で、庄司はその日一日堀内からの怒りのオーラと、矢岸からの恨みがましい視線に悩まされたが、それでも悩みのうちのひとつはとりあえず解決したことで、いつもより少し明るい気分で帰宅した。
家に帰っても牧野はまだ戻っていなかったが、今日は都内のスタジオで、雑誌の取材と打ち合わせがあるだけだと聞いていたので、もうしばらくすればここに帰ってくるだろうと、庄司は不安には思わなかった。
ここ最近、毎朝出掛ける前に、牧野にその日一日の予定をそれとなく聞くことが日課になっている。踏み込み過ぎだと思いながらも、あの休日の朝以降、牧野がこの部屋に帰ってくるかどうかが気になって仕方なくて、どうしても聞かずにはいられないのだ。そして牧野も、聞けば隠すことなくその日のスケジュールを教えてくれ、予定が狂ったときには、庄司の携帯に連絡を入れてくれるようにさえなっていた。
携帯を取り出して確かめる。今日はまだなんの連絡も入っていない。おそらく今頃仕事を終えて、こちらに向かっているころだろう。帰ってきたらすぐ飲めるようにしておこうかと、庄司がコーヒーを淹れる準備をしていると、前触れなくガチャガチャと鍵を回す音が響き、シンクのすぐ右脇にある玄関の扉が開いた。すぐ物も言わずに、常にもまして仏頂面の牧野が中に入ってくる。
突然すぎる帰宅に、ふたり分のコーヒーカップを指に引っ掛けたまま、庄司が呆然と見詰めていると、その視線を避けるように牧野は深く顔を伏せて、靴をいい加減に脱ぎ捨てた。そして荒々しい足取りで、奥に向かおうとする。
「牧野さん、どうかしたんですか?」
呼びかけても振り返ろうともしない。背後からわずかに窺える表情は、固く強張っていた。とても放っておく気になれずもう一度呼びかけると、牧野は疲れたようなため息を漏らした。着ていたコートを無造作に畳の上に脱ぎ捨て、こちらを振り返らないままぼそりと呟く。
「……今日、スタジオの廊下で岳とすれ違った」
思いがけない言葉に、庄司はぎくりとした。くずおれるようにその場に腰を落として、牧野が自嘲気味な笑みをこぼす。
「なにもなかったような顔で笑いながら挨拶された。あいつはいつもそうだ。妙に余裕たっぷりで落ち着いていて、年下のくせに……」
「牧野さん?」
「俺だけが裏切って、俺だけが嘘をついて、俺だけがみっともない姿をさらして」
何を思うのか、牧野は額に当てたこぶしを握り締め、懺悔するように瞳を閉じる。まるで泣いているように、その口許が歪んだ。
「俺だけが、忘れられない……」
弱い声で漏らされた牧野の告白が、彼がまだ昔の恋人を愛していることを庄司に教えた。多分そうなのだろうと分かっていたのに、牧野の言葉を聞いた庄司は焦げ付くような痛みを胸に覚えて、愕然と息を呑む。苦くて仕方ないその痛みをなんとか飲み下し、庄司の口から咄嗟にこぼれだしたのは、これまで聞くことのできなかった問いかけだった。
「……それなら、どうして別れてしまったんですか?」
牧野が、うつろな瞳で庄司を見上げた。
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