琥珀色【前編】

17

「牧野さん、大丈夫ですか?」
「……大丈夫って、なにがだ」
 ハッとした。牧野と長谷川がかつて付き合っていた事実を、自分が知っているのは堀内から教えられたからで、直接牧野からその話を聞いたことはまだなかったことを、今更ながら思い出す。
 庄司が牧野の秘密を知っていることが分かってしまえば、必然的に庄司が女性週刊誌の編集者であることもばれてしまうだろう。そうしたら、……牧野は怒り狂い、もう二度とこの部屋に足を向けなくなるのではないか。そのことに思い至った瞬間、背筋が粟立った。
 何を話せばいいのか急に分からなくなり、表情を硬くして黙り込んでしまった庄司を見て何を思ったのか、牧野もしばらく無言のままこちらをじっと見詰めていた。ややして、どこか複雑そうな表情でぽつりと呟く。
「やっぱり、似ているんだな。おまえ」
「……似ている? 誰にですか」
 言葉で答える代わりに牧野がゆっくりとテレビ画面に視線を戻す。そこにはまだ長谷川の姿が映っていた。今流れているのは来夏公開予定の映画の、製作発表記者会見の模様のようだ。つい数日前に行われたものだと、キャスターが解説している。
 監督からマイクを譲られた主演の長谷川が、落ち着いた深い声で抱負を語り出す。次々と質問してくる記者たち一人一人と目を合わせ、長谷川は丁寧な言葉遣いで穏やかに、自分の考えを自分の言葉で述べていた。柔弱さはまったく感じられず、度量のある男の余裕を感じさせるその姿に、たった今スキャンダルの渦中にあるような気配はどこにも見受けられない。
 画面越しにも魅力的に見える長谷川の姿をとらえた牧野の瞳の中に、抑えきれない感情が浮かび上がって揺れた。
「あいつと……、長谷川と、どこか似ている」
「長谷川さんと……?」
 告げられた言葉を不快に感じ、庄司はそんな自分に戸惑った。
 牧野ほどではないにしろ、長谷川も庄司にとって長年好きで、その演技に注目している俳優のひとりだ。そんな人と似ているといわれて、不快に感じる理由がない。なのに切なげな顔で画面に見入る牧野の横顔を眺めていると、何故か無性に苛立ちを誘われた。かわりに昨夜から胸の中に灯り続けていた、暖かで穏やかな気持ちが雲をかき消すように消えていく。
 堀内に同じことを言われたときにはこんな気持ちにはならなかったのにと、不可解な思いを持て余している庄司の内心にはまったく気づかないようで、前を向いたまま牧野がぼんやりと言う。
「顔は似ていないけど、雰囲気がどこか似ているんだな……。あと体型がそっくりだ。おまえ身長は?」
「一八三センチですけど……」
「なんだ、本当にあいつと同じじゃないか。顔はがくよりも整っているくらいだし、おまえも十分俳優で食っていけるんじゃないか」
 なんなら事務所を紹介してやろうかと、冗談まじりに付け加えられた言葉の中に、庄司は引っかかりを覚えた。平板なのに、妙に尖った声が唇からこぼれ出す。
「……長谷川さんのこと、『岳』って呼ぶんですね」
「……」
 思わぬところを衝かれたように、牧野が息を詰めた。わずかに怯えを含んだ目で、傍らに座る庄司を見上げてくる。以前も彼の口からその名を聞いたことがある気がして、庄司は記憶を探った。あれは……、そうだ。初めて会ったときのことだった。
「前に、SARABAの前で眠り込んでいるあなたを起こそうとした時も、俺のことをそう呼んでいた」
「えっ?」
「覚えていませんか。あの時は、人の名前だということも分からなかったけど……。そうか、酔って俺と長谷川さんを間違えたのか」
 あの時、求めるように庄司に差し出された腕。寝顔に浮かんでいた、幸せそうな笑み。それらは全て長谷川に向けられたものだったのだと気づいた瞬間、頭がしんと冷えた。自分でも気づかないうちに、庄司はひどく冷徹な表情になっていた。
 そんな庄司の顔つきに気づき、牧野は責められているとでも感じたのか、急に激しく突っかかってきた。
「何でおまえがそんなことにこだわるんだ」
「……」
「長谷川のことを名前で呼んでたって、別にどうってこと無いだろう。あいつは俺の劇団の後輩で、もう十年以上の付き合いなんだから」
「―――ただの付き合いだったんですか」
 牧野とは友人と言い切ることすら難しい、曖昧な関係でしかない自分が、何故こんなに嫌味たらしく、責めるような物言いをするのか庄司は自分でも分からない。分からないままに、どうしても言葉が止まらない。
「普通の付き合いだけじゃ、なかったんでしょう?」
 牧野がギリッと唇を強くかみ締めた。庄司を睨みつけてくる彼の背後にあるテレビでは、いつの間にかワイドショーが次の話題に移っている。能天気なキャスターの声が耳障りで庄司はテレビを消すと、そのまま無造作に手に持ったリモコンを畳の上に放り出した。
 突然静かになった部屋の中にゴトンッと音が大きく響き、びくっと牧野が肩を震わせる。そして怯んでしまった自分を恥じるように、すぐに挑む眼差しになって口を開いた。
「……そうだ。長谷川は去年まで俺の恋人だった。だからどうした。おまえに何の関係がある!」
 部外者のくせにと言外に言われ、庄司は一瞬思考が飛ぶほどの憤りを覚えた。
「関係ならあるでしょう。毎晩毎晩人の部屋を宿代わりにしていたじゃないですか。しかもうちを選んだ理由は、ひょっとして俺が長谷川さんに似ているからなんていう、馬鹿げた理由からだったんですか?」
「……っ」
 ぐっと牧野が言葉に詰まる。一瞬何か言おうと口を開きかけ、しかしすぐに視線を伏せて口を閉ざしてしまった。そんな彼の姿に、庄司はひどい失望を覚えた。本当に彼は猫のようだと思った。気まぐれに人の家に寄りつきすっかり懐いた素振りでいながら、求めていたのは庄司からの情ではない。自分の傷を癒す心地よい場所と、恋人に似た男が少し気に入って、つかの間居着いてみただけなのだ。
 きっと牧野はいつでもためらいなく、この部屋を後にすることができるのだろう。最初この部屋に泊ったときに、礼のひとつも言わず、何の未練もなしに立ち去ってしまった時のように。
 そう考えると、つい先程まであれほど居心地よく感じた二人だけの空間が、急に薄っぺらいかりそめのもののように感じられてくる。それでもその空間を失いたくないと思っている自分にも庄司は気づいてしまっていて、そんな自分がどうしようもなく愚かに思え、苛立ちを殺しきれずに固く拳を握り締めた。

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