琥珀色【前編】

16

 その翌日は、仕事が休みだった。雑誌の校了日の翌日でもあり、疲れを癒すためにのんびり朝寝を楽しもうとしていた庄司だったが、カーテンの隙間から差し込んできた朝の光がちょうど顔の上に当たり、その眩しさに眠りを妨げられてしまった。それでも体を返して光から逃れ、しばらくは未練がましく瞼を閉ざしていたのだが、どうも二度寝できそうにないと悟って、渋々目を開く。
 仕方ない、せっかくよく晴れているようだし布団でも干すかと肘をついて上半身を起こし、ふと肩が妙に凝っていることに気づいた。何でだろうとちょっと考え、昨夜クッション代わりに牧野に背中を貸してやったことを思い出す。庄司が無理に起こさないことをいいことに、遠慮なくその背中にもたれ掛かって眠っていた男は、今また庄司のすぐ傍らで、心地よさげな寝息を立てて布団にくるまっていた。
 こちらを向いている無防備なその寝顔が意外なほどあどけなく思えて、物珍しさについしげしげと眺めていると、その気配を感じたものか牧野の瞼がゆっくりと持ち上がった。ぼんやりした表情でこちらを見つめ、数秒の沈黙のあとボソリと言う。
「……キスでもするつもりか?」
「え!?」
 言われてはじめて不自然なまでに近い互いの距離に気づいた。布団に肘をついて牧野の顔を覗き込んでいた庄司は、まるでのしかかるように牧野の体の上に覆いかぶさっている。慌てて体を引くと、庄司は必死で弁解した。
「ち、違いますよっ! 起きている時とずいぶん印象が違うから、なんとなく珍しくて、つい――」
「何だ違うのか。変な期待をさせるな」
 期待ってなんだ。いったいなんのと、そのまま固まってしまった庄司を放って布団から手だけを出し、枕元に置いた携帯を引き寄せて牧野が時間を確認する。そしてあれ? という顔になった。
「おまえ、今日は随分ゆっくりしているんだな。仕事は休みなのか?」
「え? ああはい、まあ……。牧野さんこそこんなにゆっくりしてて大丈夫なんですか?」
「……俺も今日はオフだ」
 ふたり向かい合ったまま、沈黙する。牧野が庄司の家に泊るようになってからすでに一月以上が経っていたが、二人の休日が重なったのはこれが初めてだ。毎晩寝に来るだけで、朝になればさっと部屋を出て行ってしまう牧野がこうしてゆっくりしていること自体珍しくて、庄司は戸惑いながら問い掛けた。
「ええと、どこか出掛ける予定があったりするんですか?」
「休みの日は休むものだろう。お前こそ、なにか用事があったりするのか」
「いえ俺も特には。洗濯物もたまっているし、ちゃんとした掃除もしばらくできてないから、とりあえず家事を最優先で片付けようとは思ってますけど」
「へえ、勤勉だな」
 感心したように牧野が言う。そして小さくなまあくび生欠伸をこぼすと、「それじゃ」と呟いて再びもぞもぞと布団の中に潜り込んだ。
「ちょっ……、牧野さん、起きるんじゃなかったんですか!」
「休みの日は休むものだと、たった今言ったばかりだろうが」
 不機嫌そうな声で言ったきり目を閉じようとする男に、そうはさせじと庄司は無理矢理上掛けを引き剥がした。
「俺も家事を片付ける予定だと言ったでしょうが。これからすぐに布団を干すんだから、とっとと起きて下さい」
「お前の予定なんて知ったことか。休みの日くらい好きにさせろ」
「だからここはそもそも俺の部屋でしょうが!」
 しばらく不毛な言い争いをしたあとようやく牧野を起こすことに成功し、仏頂面の彼が派手に滴を飛び散らせながら台所で洗面を済ませている間に、庄司はすばやく布団を干した。続けて洗濯物に取り掛かろうとベランダに置いてある洗濯機に洗い物を放り込んでいると、何気なく近づいてきた牧野がその中に自分の洗い物をぽいぽいと投げ入れて行く。たちまち洗濯機の中はふたり分の洗い物でいっぱいになってしまった。
「……自分のものは、自分で干してもらいますからね」
 もはや咎める気力もなく、それでもせめてこれだけはと庄司は牧野に念を押したのだが、聞いているのかいないのか分からない様子で、牧野はまたふらっと部屋の中に戻っていってしまった。そしてよく日の当たる暖かい一隅に座を占めると、昨夜も眺めていた台本を取り出してきてページをめくり出す。
 洗濯機のスイッチを入れて部屋に戻った庄司が掃除を始めると、掃除機の音にうるさそうに眉をしかめ、入れ違いのように今度はベランダへと逃れていった。洗濯機の回る音もやかましいだろうが、掃除機と違って動かないだけましというところだろうか。
 布団にもたれながら台本を読んでいるその姿を、熱心だなと思って眺めていると、視線の先にある頭が急にかっくんと前方に落ちた。……どうやら居眠りをしていたようだ。すぐにはっと目を覚ますと、牧野は何事もなかったようにずり落ちた眼鏡を直して台本を再び読み出す。しかしまたしばらくすると日差しに温まった布団に頭をこすりつけ、気持ちよさそうに目を細めたりしている。
 掃除を続けながらもたまにその姿を観察して、猫みたいな人だなと、いつかも抱いた思いを新たにした。外見はどこから見ても立派な成人男性なのに、なんと言おうか、人間くささがあまり感じられないのだ。なにごとにも無関心なように見える一方で、ひどく気ままに、自分のしたいことをしたいようにやってのける。傍迷惑な性格ともいえるが、そんな牧野だからこそ、庄司もほとんど抵抗なく彼を部屋に置けたのかもしれない。
 やがて部屋の掃除が終わると、洗濯物が洗いあがるまでの時間つぶしにと庄司はテレビをつけた。ちょうど昼前のワイドショーが始まったばかりのようで、画面にはこれから放送予定の特ダネのラインナップが流れている。そのテロップを見て、庄司は瞠目した。咄嗟にベランダのほうを振り向く。
 掃除が終わったのを見て取って、ちょうど中に入ってきた牧野が、同じようにテレビのテロップに気づいて凍り付いた。画面が切り替わって、別々に撮られたと思しき男女の映像が映し出され、女性キャスターの張り詰めた声がそこに重なる。
『人気俳優の長谷川岳さんと葉山綾乃さんが別居したという、衝撃的なニュースが飛び込んできました。まだ結婚一年め。人気者同士の新婚カップルに、いったい何があったのか……』
 この後すぐです! と力強く言う声が、部屋の中に虚しく響いた。昨日の昼間、堀内が言っていた言葉が蘇る。長谷川と葉山の別居が間近だとは聞いていた。しかし、まさかここまで早く事態が進展するとは思ってもいなかった。
 牧野は番組がCMに切り替わってからも、そのまま呆然と画面に見入っていた。やがてCMが終わり、再び長谷川の姿が画面に映し出されると、ビクッと小さく肩を震わせる。
 長谷川夫妻の別居はトップニュースだった。次々とめまぐるしく切り替わる画面。夫妻の住んでいたというマンションと、長谷川岳がひとりで住み始めたという一軒家の映像がそれぞれボカシつきで流され、同じくボカシを掛けられた付近の住民たちがレポーターのインタビューに興味本位な答えを返す。
 カメラがスタジオに戻されると、今度はどこかの大学の講師だという女性コメンテーターが出てきて、「互いに職業を持ち、自立した夫婦関係の維持の難しさ」について鹿爪らしく学説を語り出した。それが終わると今度はキャスターが最近別居や離婚をした芸能人の一覧を示しながらどうでもいいこじつけのジンクスを挙げて、どこまで本気なのかは知らないが、いかにも沈痛そうな表情を作ってみせる。
 続けて長谷川と葉山がこれまで出演した番組の数々を編集した映像が流れ始めた。映画やドラマの一部を切り取った映像の中には、庄司も見覚えのあるものがいくつかあった。様々な役柄を演じる長谷川の姿が、幾度も幾度も画面に映し出される。
 無言でそれを見つめている牧野の顔が、次第に歪み出す。苦しげに眉をひそめ、痛いような表情で唇を噛み締めている。掛ける言葉もなくその様子を見守りながら、牧野が結婚前に長谷川と付き合っていたという話に、庄司ははじめて現実感を抱いた。
 再び画面に視線を戻す。映し出される長谷川の、温和で優しそうな面立ち。癖のある柔らかそうな髪は品よくまとめられ、均整の取れた長身に隙なくスーツを纏っている。牧野はこの男を愛していたのだ。思った瞬間、苦いものが胸の奥からこみ上げてくる。
 いやもしかしたら、今でもまだ好きなままなのかもしれない。そう思わずにはいられないほど、牧野は真摯な顔で画面に見入っていて、すぐ隣りにいる庄司の存在など完全に忘れ去ってしまっているようだった。
「牧野さん……」
 思わず呼びかけていた。やっと夢から覚めたような顔で、ゆるゆると牧野がこちらを振り返る。

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