琥珀色【前編】

15

 レンジで白飯を解凍し、鍋焼きうどんの容器をコンロにかけてひと煮立ちさせてから、ささやかな夕餉ゆうげが始まった。庄司がキッチンであれこれと作業をしている間、牧野は何も手出ししようとはしなかったが、奥の部屋から始終興味深そうに庄司が立ち働いている様子を眺めていた。
 つるつるとうどんを手繰たぐりながら、飯をかきこむ。やや濃すぎる味の鍋焼きうどんは、飯と食べるのにも、ビールを飲むのにもよく合った。三枚のっていた薄っぺらいカマボコを一枚だけ取り、残りを牧野にやると、譲られたことには気づかず、牧野が「向こうが透けて見えるぞ、このカマボコ」と、ぺらぺらしたそれを灯かりにかざしながら愚痴をこぼしたりする。
 いつの間にか雰囲気はすっかり元通りで、そのことにひどく安堵しながら、庄司は汁を少しも飛ばさずに器用にうどんを手繰る牧野の手許を感心して眺めていた。すっと長い牧野の指が操る箸の動きは優雅なほどで、持ち方もお手本のように決まっていて品がある。
 そう言って褒めると、牧野は「祖母がうるさい人だったから」と言って、手許にあったビールを口に含んだ。その顔が少し赤らんでいる。
「牧野さんて、ひょっとしてあまり酒は強くないんですか?」
まだビールを一缶しか飲んでいないのにもう酔いが回ってしまったのかと驚きながら聞くと、
「三〇を越えた辺りから、急に弱くなったな。昔はいくらでも飲めたのに」と、切なそうにため息を吐かれた。今日の牧野はいつもより少し表情が豊かな気がする。これも酒のせいだろうか。
「そういえば初めて会った日も、飲みすぎで道に倒れていたんですよね。いつもあんな飲み方をしているんですか」
「いや。いつもはもっと飲むんだけど、あの日はママにこれ以上は駄目だって止められて、無理矢理帰されたんだ」
 何でもないように言われ、庄司は呆れ果てた。よく今までアル中にも、ワイドショー沙汰にもならなかったものだ。そしてこんな話をしているのに、牧野はもう次のビールを開けようとしている。庄司はさりげなく手を伸ばして、牧野の手を押さえた。ついでに缶を取り上げてしまおうとすると、牧野はむっと眉をひそめ、奪われまいと手に力を込めながら言い訳がましく言葉を足した。
「でも今までは何事もなかったし、酔うと眠くなるだけで、人に迷惑をかけたことなんか無いぞ」
(……俺にかけた迷惑は、迷惑じゃないのか?)
 いや、そんなはずがない。おそらく今までにも散々周囲の手を煩わせながら、本人だけがそのことに関して自覚が薄いのだろう。おめでたいと言おうか、鈍いと言おうか……。
 ため息をつきつつ、どの道自分が買ってきたものなのだからと、庄司はやや強引にビール缶を取り上げた。
「とにかく、今日はこれ以上飲まないで下さい」
「うるさい。いくらなんでもこれっぽちで酔うわけがあるか」
「なに言ってるんです、もう顔が赤いじゃないですか。体は大事にしてください。三月の舞台だって、俺は今から楽しみにしているんですからね」
 なおも未練がましく手を伸ばす牧野の手が届かないようにビールを持って立ち上がり、キッチンの冷蔵庫にさっさと片付けてしまう。牧野はムッと顔をしかめたが、庄司の言葉に少し驚いたようで、意外そうに聞いてきた。
「舞台って来年の春の? 観に来るのか」
「当たり前じゃないですか。牧野さんが久々に舞台に立つって聞いたときの、俺の喜びを察してくださいよ。チケットだって予約開始日が仕事だったから、外勤中に携帯で電話してS席を予約して、もうとっくに引き取り済みで」
 牧野のファンであることはどうせばれてしまったのだからと、言う必要のないことまでべらべらとしゃべってしまう。おかげで懐がちょっと寒くなりましたけど、と冗談めかして付け加えると、牧野が赤い顔でまた少しだけ笑った。それが嬉しくて、庄司はより一層笑みを深めた。



「牧野さん、コーヒー飲みますか?」
 夕食が終わると、ちょうど日付が変わるくらいの時間になっていた。まだ寝るには少し早いようだし、なにか飲み物でも淹れようかと思って再びキッチンに立ちながら尋ねると、牧野はエアコンが真上にある一番暖かい位置でぼんやりとテレビを眺めながら、顔だけをこちらに向けて「インスタントは嫌だから」とちゃっかり言って寄越す。
 やはり夕食を食べさせてもらうことは遠慮しても、コーヒーを淹れてもらうことには遠慮がないらしい。どうも彼はコーヒーをはじめ飲み物というものは、他人が自動的に運んでくれるものだと思っている節がある。いつも付き人が世話してくれる環境にあるせいなのか、それとも彼だけが特別なのか。
 たぶん後者だろうなと思いながら、庄司はミルで豆を挽き始めた。台所の炊飯ジャーの右手には、少し前から立派なコーヒーセットが置かれている。牧野がこの部屋を訪れてくるようになってしばらくしてから、宅配便でいきなり送りつけられたもので、箱の中には上質の豆まで何種類も取り揃えてあった。
 ただでさえ狭かった台所がより狭苦しくなってしまったのは悩みの種だが、やはりきちんと豆から入れたコーヒーは味も香りもまったく違っていて、これを飲むことは、今では庄司にとっても楽しみのひとつになっていた。牧野は嗜好品には金を掛けろと言い張ったが、その意見も一理あると最近では庄司も思う。こんな些細なことでも、精神的にひどく潤されるのを感じるのだ。
 やがてじっくり淹れた薫り高いコーヒーができあがると、その味と香りを楽しみながら、二人はしばし思い思いに時間を過ごした。庄司は買っておきながらまだ手をつけていなかった文庫本を読み始め、牧野は庄司とちょうど背中合わせになる位置で、ドラマの台本をめくり始める。
 いったん何かに集中すると、牧野はほとんど口を開かなくなる。貧乏ゆすりをしたり、やたらと足を組み替えたりという無駄な動きも一切しない男なので、こうなると本当に静かだ。ふたりがぱらり、ぱらりとページを繰る音だけが時折部屋の中に響く。独りでいる寂しさもなく、他人がいる煩わしさもない時間は、とても居心地よいものだった。穏やかな気持ちになりながら、庄司が本に没頭し始めたとき。
 ふいに背中に温度を感じた。
 首だけを背中側に向けてみると、牧野がもたれかかるようにして、庄司の背に自分の背を軽く寄り添わせている。こちらを振り向かないまま、牧野が口の中で呟いた。
「……このくらいはいいだろう?」
 昨日の会話の当てこすりだろうか。庄司の好みのタイプから外れていても、背中を貸してくれるくらいいいだろうと、彼は言っている。
 相手の体温や、筋肉の張った感じが、背中からリアルに伝わってくる。体を離すべきかもしれないと思いながら、何故だかその温かさが心地よく感じられて、庄司は牧野の言葉にゆっくりと頷いた。
 あえて何も意識していない素振りで再び手元の本に目を落とすと、ホッと息をつく音がかすかに聞こえた。合わさった背中からゆるゆると力が抜かれ、いくらか深く体を預けながら、牧野は再び台本に目を落とす。互いの鼓動までが伝わってくるような、そんな不思議な感覚があった。
 しばらくして、ふと背中合わせの体が力を失ったような気がして、庄司は首を曲げて後ろを見た。庄司の体にもたれたまま、牧野が台本も取り落として寝入っていた。ぼんやりとその顔を眺めていて、牧野の下瞼の柔らかい皮膚にわずかな小じわが刻まれていることに気づく。それを見つけた瞬間、胸のうちに労しく思うような、それでいてひどく優しい気持ちが湧き上がってきた。
 指先を伸ばしてその部分の皮膚に触れてみたい衝動が起こり、それを押さえ込むのに少し苦労する。何故だか互いの体を離すのが嫌で、『寒いからだ』と自分に言い訳しながら、庄司は牧野を起こそうともせず、しばらくの間、ただじっとその体温を感じていた。

-Powered by HTML DWARF-