琥珀色【前編】
13
翌日は寝不足で、ろくに仕事にならなかった。それでも校了時間は待ってくれない。印刷所から出てきたばかりのゲラ刷りを揺らぐ視界で必死に睨みつけ、血眼になりながら校正してなんとか入稿を済ませた庄司は、ほっと一息つく間もなく、島の端のデスク席に腰掛けた堀内からおおい、と呼びつけられた。煙草を指に挟んだ手で、こっちに来いと差し招かれる。
「おい、庄司。例の取材はどうなっている? 進行状況を聞かせろ」
例の取材とは言うまでもなく、牧野に関する件のことだ。昨夜も庄司の部屋に泊まっていった牧野に新たな動きなどあるはずも無いのだが、馬鹿正直にそう報告するわけにもいかない庄司は、いつも通りの答えを口にした。
「残念ながらまだ何も。あれから一度も例の店に現れないものですから」
「またか〜? おかしいな。おまえ最初にあの店に行ったときに、何か牧野に怪しまれるような行動をしたんじゃないだろうな」
堀内は、昨夜は編集部に泊まり込みだったらしい。くしゃくしゃになったワイシャツの上に、咥えた煙草の灰が落ちるのも無視して、いぶかしげに首を傾げる彼に内心冷やりとしながらも、「何も思い当たることはありませんが」と何食わぬ顔で答える。苦い顔つきで堀内は天井に向かって盛大に煙を吐き出し、乱れきった髪をガリガリと苛立たしげにかきながらこぼした。
「しょうがねえな。長谷川のほうの別居話が進んでるみたいだから、そろそろ牧野のほうの取材にも進展が欲しかったんだが」
「え……」
突然の思い掛けない言葉に、ドクンと大きく鼓動が跳ねた。すっと息を吸い込み、動揺を声に表わさないようにして慎重に問い掛ける。
「長谷川岳の別居が? 決まったんですか」
「まだだが、もう時間の問題みたいだな。たぶん来週中には、一斉にワイドショーで別居報道が始まるぞ。案の定嫁さんの葉山の事務所のガードが固くて、こっちもなかなか取材が進まないのが難なんだが」
ちびた煙草を名残惜しげにもう一度吸い、うず高く吸殻が積もる灰皿にギュッとそれを押し付けてから、堀内は煙混じりのため息とともに、どっと椅子の背もたれに体を預けた。
「長谷川夫妻の別居と牧野のゲイ疑惑を来週号の巻頭二本立てにするプランで、編集長の度肝を抜いてやりたかったのになぁ、畜生。――おい、庄司。こうなったら長谷川と葉山の離婚までには、絶対に何か牧野関連のネタ捕まえろよ。おい、聞いてんのか!?」
―――長谷川岳が別居する……。
堀内の言葉も耳に入らず、庄司はその情報をやけに重く受け止めていた。
互いの結婚を潮に別れた二人が、ほぼ同時期に夫婦生活に終止符を打とうとしている。長谷川の別居を知れば、牧野はどんな反応を示すのだろうかと無性に気になった。ひょっとしたら堀内が最初に予測したように、長谷川とよりを戻そうとすることもあるかもしれない。もしそうなってしまえば、牧野はもう二度と自分の部屋になど来ないだろう。
厄介ごとがなくなりそうで嬉しいとは思わなかった。それどころか、昨夜布団の隙間から忍び込んできた冷気に似た寂しさを覚えて戸惑う。
昨晩、ずっと自分に向けられていた背中が、今はひどく遠く思えた。今晩も牧野はあの部屋を訪れて来るだろうか。常にない不安を感じながら、庄司はゆっくりと堀内の前を辞した。
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