琥珀色【前編】

12

 それは合鍵を渡したときから数えて、三度めに牧野が訪ねてきた日のことだった。その日、庄司は翌日午前中入稿の原稿整理にてこずって、ずいぶんと帰りが遅くなってしまった。なんとか原稿に目処をつけ、疲れ果てながら深夜にやっとのことでアパートに戻ると、牧野は意外にもまだ起きていて部屋で珍しく何かDVDを見ていた。
 もし牧野に鍵を持たせていなければこんな時間まで外で待ちぼうけを喰わせてしまっていたかもしれず、改めて合鍵を渡しておいて良かったと思いながら、自分も何気なく後ろから画面を覗き込んだ庄司は、そこに映し出されている映像にぎょっとして息を呑んだ。
 画面の中で、カルテを片手にした医師が、もう片方の手で眼鏡を押し上げながら、なにごとかを鹿爪らしい顔でしゃべっている。白衣を羽織った神経質そうなその医師は、畳の上に座り込んでじっとテレビ画面を見詰めている眼下の男とまったく同じ顔をしていて、何も聞かずともそれがつい先ごろ放映された、牧野が主演の医療ものドラマの映像だということが分かった。
「牧野さん、このDVDってひょっとして……」
「ああ、そこに色々あったから、何が入っているのかと思って」
 部屋の隅に置かれたラックの、DVDケースが並べられた一段を指して、面白くもなさそうに牧野が言う。
「予約までしてよく何か録画しているのに、録ったものを全然見ていないから変に思ってたら。ケースのラベルを見て驚いた。おまえ、俺になにか遠慮でもしていたのか?」
 なんとも答えようがなくて黙っていると牧野は映像を停め、今度はテレビ台の黒いガラス扉を勝手に開く。濃い色のガラスに遮られて外からは見透かせない内部には、古いビデオテープが隙間なく並べられていた。
 中から無造作に一本を取り出し、背に貼られたラベルの文字を読み取って、牧野は小さく眉をひそめる。かなり昔に印字されたことが明らかな、ドットの目立つ文字。素人が手作業で作ったようなそのラベルには、テープが記録された年月日とともに、「琥珀色」という舞台のタイトルが記されていた。
 何も言わずに、牧野は今度はビデオデッキのほうにそれをセットする。数瞬の砂嵐のあと、すぐに画面に幾分荒れた映像が映し出された。音質もあまりよくない。少しこもったような、それでもよく響く声で、向かい合って立つ小柄な女に情熱的な台詞を捧げているのは、今よりもだいぶ若く見える牧野だった。
 絞られたスポットライトに照らされて舞台上に立ちながら、光る汗を飛び散らせて懸命に演じているかつての己の姿を無表情でしばらく眺めたあと、牧野はビデオを停めた。そしてすっかり身の置き場を無くしている庄司を見上げて、怪訝そうに聞いてくる。
「お前、俺のファンだったのか?」
 ラックに並べられたDVDも、テレビ台の中のビデオも、中に収められているのはすべて、牧野が出演した映画やらドラマやらの映像だ。特にこの「琥珀色」のビデオは、かつて再演時に会場内だけで限定販売されたもので、現在はそれぞれ実力派俳優として人気を博している牧野と長谷川が共演しているということもあってプレミア価値がつき、今となってはよほどのマニアでもなければ持っているはずがない代物だった。
 そんなビデオを持っていることがばれてしまった以上、今更言い訳のしようがなく、庄司は気まずく頷く。
「全然その気が無いみたいだから、俺には全く関心が無いと思っていたのに。俺自身に興味はなくても、俺の演技は好きなのか?」
「ええ、まあ……」
 曖昧な庄司の答えが釈然としない様子で、牧野が仕草で自分の正面に座るようにと促す。大人しく指示に従いながらも、なんだか妙に居心地が悪い。足を組み替える振りで、庄司は落ち着きなく、もぞもぞと身じろぎを繰り返した。
「恋人は、いないよな。いつ来てもその気配もないし。じゃあお前は一体どんなタイプが好みなんだ」
 唐突に聞かれて庄司は戸惑った。質問の意図を計りかねながらも、思いついたままのことを素直に口に出す。
「別に普通ですよ。そこそこ可愛くて、優しくて、よく気がつくような子なら言うことないです」
 すると途端に牧野が鼻白んだような顔をした。ふんと小馬鹿にしたように鼻を鳴らし、何も映っていない真っ黒のテレビ画面を睨みつけながらぼそりと呟く。
「女みたいなタイプが好きなんだな」
 その言葉に庄司はあっと息を呑んだ。
 間抜けなことに庄司はこのとき、牧野が同性愛者であるということを忘れかけていた。もちろん形ばかり牧野の取材を続けている以上、頭ではちゃんと理解しているつもりだったが、普段牧野と接しているときに、彼の性癖について強く意識したことがほとんどなかったのだ。それほどまでに、この部屋に落ち着いているときのふたりの間には、生々しい気配が欠如していた。
 本当の性癖はノーマルなのだということがばれただろうかと、庄司は焦った。初めて会ったときにゲイバーで飲んでいた理由まで追求されたらどうすると庄司は身を硬くしたのだが、牧野はそこまで考えを及ばしたわけではないらしく、ただ不機嫌そうに意味なくテレビ画面を見詰めて、口を噤むだけだった。
 やがてその体から発散される刺々しい空気と、沈黙の長さに庄司が居たたまれなくなってきたころ、牧野がいきなり立ち上がった。驚く庄司には目もくれず、「もう寝る」と言ってさっさと布団を引っ張り出すと、その中に潜り込んでしまう。
 怒っているのだろうかと思いつつ、いったい何に関してへそを曲げられてしまったのかがいまいち分からず、庄司はしばらくそのままただぼんやりと布団からはみ出た牧野の黒髪を眺めていた。布団に深く潜り込んでうつ伏せに寝ているその姿に、息が苦しくはないのだろうかと余計な心配までしてしまったが、庄司が見詰めている間中、牧野は身じろぎひとつしないままだった。
 その晩もいつも通り、庄司は牧野の隣に身を横たえて眠ったが、不思議といつもよりも寒さを強く感じる気がして、なかなか寝付くことができなかった。何でこんなに寒いのだろうと考えて、牧野がいつもよりさらに体を小さく丸めているために、互いの体の間に隙間ができて、そこから冷たい空気が流れ込んできているのだと気がつく。
 なんだか妙に気まずくて、せめて牧野が布団から顔だけでも出さないかと、庄司は暗闇の中、何度もちらちらと隣の気配を窺ったが、いつも庄司を眠りに導く牧野の快い寝息も、今日はなかなか聞こえてこない。些細なことなのに、そのことがどうしても気になって仕方なかった。
 これが恋人同士だったら簡単だったのにと、ふいにもどかしさに駆られた。それなら相手の体を抱き寄せて、温めながら謝ることができた。だがそんな安易で安直な方法を、まさか牧野相手に試すわけにもいかない。
 闇に慣れた眼で天井板の木目をじっと眺めながら、庄司はその夜一晩をまんじりともせずに過ごした。

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