そんなことを考えながらもなおぐるぐると悩んでいると、庄司の心の天秤が自分に都合のいいほうに傾きつつあることを敏感に嗅ぎ取ったものか、牧野が急に立ち上がって、持参のバッグをごそごそと掻き回し始めた。見ていると中から綿パンツや長袖のシャツ、それに下着などの着替え類と、さらに続けて歯ブラシやら洗顔フォームやらの洗面用具まで取り出して、ひとところに積み上げている。
もしやこれは「お泊りグッズ」というやつではないかと狼狽する庄司に、さすがに俳優らしい朗々とした声で、牧野が偉そうに言い放った。
「シャワーを借りるぞ」
「本当に泊まる気なんですか……」
複雑な表情の庄司をどう捉えたものか、取り出した荷物を小脇に抱え、早くもユニットバスの扉に手を掛けながら、牧野がちらりとこちらを振り返った。
「俺だって何も好きでこんな狭い部屋に泊まるわけじゃない。仕方なく泊まってやるんだ。風呂に入っている間に布団を敷いておけよ」
それだけ言い残すと、着替え一式を抱えてさっさと中に入っていってしまう。狭い風呂場に文句をつける声が小さく聞こえてきて、程なく水音が室内に響き始めた。バシャバシャと派手な音に、これは使用後はトイレまで水浸しになっているだろうなと肩を落としながら、庄司は仕方ないと立ち上がった。押入れから布団をずるりと引き出す。厚い敷布団とともに、昨日牧野の眼から隠そうとして詰め込んだ雑誌名や出版社名入りの封筒が雪崩落ちてきて、慌てて押入れの隅に寄せてある衣類ボックスの引き出しの奥にそれらを詰め込み直した。
牧野は随分な早風呂タイプのようで、布団を敷き終わってさほど経たないうちに、髪から滴を滴らせながらユニットバスから出てきた。セットされていない前髪が額に落ちかかり、ラフな格好も相まって、いつもよりも幾分若く見える。
タオルで無造作に髪を拭きながら、牧野は部屋の隅に放り出してあった自分のコートを取り上げると、ポケットから携帯電話を取り出してアラームをセットした。そしてその場にコートとタオルをぽいと放り出すと、枕元に携帯電話と外した眼鏡を置いて、布団の中にごそごそと潜り込む。ほんのお義理のように「お先に」と呟くのが聞こえた。寝つきもいいほうらしく、微かな寝息が聞こえてくるまで数分も掛からなかった。
しばし呆然とその寝息を聞き、やがて庄司はがっくりと肩を落とした。完全に牧野のペースに巻き込まれている。まいった。
深々とため息を吐き出してから、力なく立ち上がる。枕元に無造作に置かれた眼鏡をまたテレビの上に避難させ、コートをハンガーに掛けてタオルは洗濯機の中に放り込み、部屋の明かりをひとつ落とす。枕カバーの上に散る、短い黒髪を見下ろした。
(結局今日も同じ布団で寝るしかないのか)
牧野なりの気遣いなのか、あるいはたまたまなのかは分からないが、体を横倒しにして小さくまるまって眠っているため、広くもない布団はきっちりと片側半分が空けられていた。
鼻から上が掛け布団から覗いている。照明を落とした分、牧野の横顔は陰影が濃く浮かび上がり、眼の下のクマもはっきりと目立って、なんだか随分と疲れているように見えた。妙に寝つきが良かったのも、ひょっとしたら体質なのではなく、よほど疲れていたからなのだろうか。そんなことを考えてしまうと、ますます彼を追い出しにくくなってくる。堂々巡りの思考がいい加減嫌になってきて、庄司はがりがりと髪をかきむしった。
(――もう知るか。どうせ気まぐれなんだろうから、まともに悩むだけ損する)
こんな狭くて古い部屋、すぐに牧野も嫌になることだろう。それまでの間に堀内が牧野への取材を諦めてくれれば僥倖じゃないかと考えて、庄司はそれ以上の思考を放棄し、自分も寝支度を整えるべく風呂場へと向かった。
* * *
翌日の朝も牧野は早くから撮影があるようで、携帯のアラーム音で目覚めるなり、すぐに着替えて部屋を出ていった。昨夜使った着替えのほか、荷物一式をすべてそのまま部屋に置いて行こうとした彼に、あれはどうすればいいのかと戸口で庄司は一応聞いてみたのだが、牧野は後ろを振り返りもしないまま、そっけなく「置いておいてくれ」と言い残しただけだった。
その晩は牧野の訪れは無かったが、更にその翌日の夜、また部屋の前に座り込みながら、彼は庄司の帰りを待っていた。そして前回同様庄司が部屋の鍵を開けるなり遠慮会釈もなく部屋の中にずかずかと入り込んできて風呂を使い、そのまま眠ってしまう。翌朝はまた早くから起き出して、さっさと仕事に行ってしまう。庄司は疾風のような牧野の訪れに、ただもう唖然とするしかない。
結局牧野はその後も三日と空けず、庄司の部屋に顔を出した。もはや帰る場所をすっかりここに定めてしまったようで、撮影で地方に行っている日以外は、ほとんど皆勤で来ているようだった。最初に自分から約束したとおり、ゲイバー通いもやめているようで、本当にただ眠ることだけを目的に訪れてくる牧野に、次第に庄司も最初の困惑も忘れ、大きな疑問も抱かずに牧野を部屋に入れるようになってしまった。
普通ならば大の男に居つかれてうっとうしくないはずがない。しかし牧野は面白みには欠けるものの、つくづく邪魔にならない男だった。初対面のころは傲慢な態度が目立ったが、必要がなければ世間話すらしない寡黙な性質だったし、部屋の中を余計にかき回すこともしない。とにかく来ればすぐに寝てしまうし、ときたま割合早い時間に部屋を訪れて夜少し起きているようなときも、持参の台本などを取り出して黙々と読んでいる。これでは邪魔になりようが無い。
お互いの寝相がいいことも大きかった。寝言や歯軋りの癖も無いので、布団を分け合って眠ることにはすぐに慣れた。年末が近づき冷え込みが厳しくなってくると、ネコの一匹くらいは湯たんぽ替わりに欲しくなるのが人の
性で、牧野が寝付いたあとから布団に潜り込んだときなど、温められた布団にちょっとした幸せを感じてしまい、庄司はどこかが著しく間違っているような、何とも言えない気分にとらわれたりもした。
一方で、庄司は牧野には言わないまま、相変わらず形ばかりのSARABA詣でを続けていた。牧野が当分店に来ないことは分かっていたが、堀内にそんな報告をするわけにもいかなかったからだ。
幾度か行くうちにだんだん庄司もゲイバーの雰囲気に慣れ、店のスタッフとも気軽に話せるようになり、誘ってくる男たちをうまくかわす術も覚えた。SARABAは案外客層がいいようで、他の同様の店に比べるとマナーの悪いものや、強引に誘ってくる客が少ないことも分かってきた。
セクハラをうまくかわせるようになってからは、最初のときに庄司の大事な部分を触ろうとしてきた吉永とも、酒を酌み交わしながら普通に会話をできるようになった。いつまでも庄司に言い寄るのをやめようとしない例の美青年、ショウちゃん(本名は知らない)は未だに少し苦手だが、とにかく経費でただ酒が飲める上に、それなりに楽しく時間を過ごせるのだから悪いものではない。
牧野が訪ねてくる時間はかなりまちまちだった。一方で庄司も決して定時で帰られるような仕事ではないので、部屋の前で牧野を何時間も待たせたこともあれば、午前二時を回り、今日は牧野は来ないらしいと思いながら庄司がすっかり寝入った頃に、いきなり部屋のインターフォンを鳴らされたこともある。
どんな時間に訪れてきても、遠慮らしきものは全く無い牧野だったが、「合鍵が欲しい」という台詞だけは言わないのが意外だった。どんなに部屋の前で待ちぼうけを食らっても、多少愚痴を言うくらいで、怒ったりするようなことはない。自分が居候であるということは最低限わきまえてはいるようで、そんなところも牧野の存在を受け入れやすくした一因だった。
そしていつでも暗がりの中に庄司の姿を見つけた瞬間には、切ないような、嬉しいような、なんとも言えない表情をしてみせるのだ。どうしてそんな顔をされるのか分からないまま、しかしそれを見るたびに、やけに胸苦しいような複雑な気分が湧き上がってきて、庄司を戸惑わせた。牧野のその不思議な表情はいつも一瞬で跡形もなく消えてしまって、あとは仏頂面を標準装備してしまうので、余計に印象深いのかもしれない。
まったく、普段はこんなに表情が少ない人が、どうして演技をしている時だけはあれほど豊かな表情を見せられるのか、庄司には本気で疑問だった。
気づけば冬の日はますます短くなり、とうとう初雪が降ると、東京の気温は一気に下がった。この寒空の下、いくら牧野が好きでやっていることとは言っても、何時間も外で自分の帰りを待たせることに、庄司は強い抵抗を感じるようになってきた。こう毎日外で何時間も座り込む生活を続けていたら、遠からず体調を崩すことは間違いない気がする。むしろ今のところ元気そうなのが、不思議なくらいだ。
それに自分の部屋の前に頻繁に男が座り込んでいるというのは、やはり外聞がいいものではない。独身男性ばかり入居している上、大家も管理人も常駐していないアパートであるためか今のところ表立った苦情はなかったが、つい先だって玄関先で顔を合わせた隣室の住人からは、「最近よくお宅の部屋の前に座り込んでいる人がいますが、知り合いですか?」と怪訝そうな顔で聞かれてしまい、どきりとしたものだ。最も奥まった位置にある庄司の部屋のあたりは暗い上、牧野はいつも顔を伏せているから今のところその正体はばれていないが、いったん気づかれれば騒ぎになることは想像に難くない。
それなりに躊躇いはしたのだが、それから数日後、結局庄司は牧野に部屋の合鍵を渡した。自分の帰りが遅いときはこれを使って勝手に部屋に入っていてくれと伝えると、牧野は何故か少し複雑そうな顔をしながら、「ああ……」とぽつりと呟いてそれを受け取った。毎日のように来ているのだから、多少は喜んで欲しいと、理不尽にも庄司のほうが不満を抱いてしまうほどだった。
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