琥珀色【前編】

10

 庄司は我知らず口を開け放した間抜けな顔になってしまっていた。一体いつ自分たちは用もなく訪ね合うほど親しい仲になったのだろうか。今朝も短い会話を交わしただけで、さっさとこの部屋を立ち去っていった男の言葉とは思えない。庄司が返す言葉を探しあぐねていると、牧野はあさっての方向を向きながら、さらに早口で言い立てた。
「お前は今朝、俺に無防備すぎる行動を慎めといったな」
「はあ……、そんなようなことは確かに言いましたが」
「だから、――お前がそう言ったから、今晩くらいは大人しく過ごしてやろうと思ったんだ。責任持って面倒を見ろ」
「……」
 相手が長年憧れ続けた俳優であるということを、庄司はこの瞬間忘れた。ふてくされたような顔でそっぽを向いている目の前の人の横顔を、異星人を見るような眼でついまじまじと眺めてしまう。
 確かに自分は忠告した。しかしそれは牧野の立場を心配した上でのことだ。どうしてその発言の責任を取らねばならないのか分からない。そもそも、何で牧野が大人しく一夜を過ごす場所に、自分のこの狭い部屋が選ばれてしまったのか。
「責任と言ったって、牧野さん」
 困惑しつつ何か反論しようと口を開いたのだが、そのとき真っ白な蒸気を吹き上げ、キッチンでやかましくヤカンが鳴り始めた。牧野が指先で甲高い音のするほうを指して言う。
「お湯が沸いている」
「えっ? ああ、はい」
 慌てて立ち上がった庄司に、男は当たり前のように要求してきた。
「俺はコーヒーをブラックで。ああ、インスタントは飲まないからな」
「……」
 こめかみがひくついた。テレビなどで見るたびに抱いていた、理知的で落ち着いた物腰の人という牧野のイメージが、激しい音を立てて脳内で崩壊していく。これではただのわがままな子どもだ。
 やかんを火から下ろし、客用のあまり使っていない綺麗なカップと、自分用のマグカップを用意する。たとえ嫌だと言われようが、この部屋にはコーヒーはインスタントしかない。招いたわけでもない客のためにそこまで構っていられるかと、粉をスプーンで無造作にすくい入れ、上から勢いよくやかんのお湯を注ぎ入れる。そしてものの三秒で出来上がったコーヒーを手に、牧野のもとに戻った。
 差し出されたカップの中身を見て、牧野は眉をひそめた。当然だが、あっという間にインスタントのコーヒーだと見破られたらしい。
「我慢してください。うちにはコーヒーを入れる器具も豆も無いんですから」
 自分のカップに口をつけながら庄司が言うと、納得しない不機嫌な顔のまま、牧野もコーヒーを一口だけ含んだ。そしてすぐに「まずい」と言って、ちゃぶ台の上にカップを下ろしてしまう。
 まあ飲まないと宣言していたのだから当然だよなと思いつつ庄司がコーヒーをすすっていると、よくそんなまずいものが飲めると言いたげな呆れ半分、感心半分の顔をしながら牧野が言ってきた。
「ずいぶん貧乏くさい生活をしているんだな。嗜好品にくらい金を使ったらどうだ」
「――牧野さんは知らないかもしれませんが、これで満足している人が世の中にはたくさんいるんです。文句があるなら自分で用意してください」
 軽い嫌味のつもりで最後の言葉を付け加えたのだが、牧野がこっくりと頷いたものだから驚いた。そして続けられた言葉にさらにギョッとする。
「分かった。次に来るときにはセットごと持ってくる」
「次に来るときにはって、まさかまた来る気なんですか!?」
 なんで今、牧野がここにいるかも分からないのに、更なる再訪まで予告されてしまい、庄司は思わず目を剥いた。するとカップに指だけ掛けたまま、牧野が不満げに唇を尖らせる。
「迷惑なのか?」
「迷惑というか、それ以前に、何だって牧野さんがうちなんかにわざわざ来るのかが分かりませんよ」
「さっき言っただろう。あまりふらふらするなと俺に余計な忠告をしたからには、お前は自分の発言に責任を取るべきだ」
「意味がわかりません! 大体、どうして自分の家に帰らないんです。立派な家があるんでしょう? 奥さんだって待っているんじゃ……」
 言いかけた言葉は、険しい視線に遮られた。
「あんなところで寝るなら、地べたで寝たほうがまだマシだ。あんなのは俺の家じゃない」
「そんな言い方は――」
「家はない。あんなところ、俺の家じゃない」
「……」
 牧野の声はひどく頑なで、それ以上何かを言いつのれるような雰囲気ではなかった。堀内の話がふいに耳によみがえる。偽装のためにしたという牧野の結婚。婚前から不倫していて、他の男の子どもを孕んでいるかもしれないという彼の妻。
 まだ憶測の域を出ない情報だが、妻のいる自宅が牧野にとって居心地のいい場所でないことは真実なのだろう。ひょっとしたら牧野は自宅でありさえしなければ、夜を過ごす場所はどこでもいいと考えているのかもしれない。この部屋を訪ねてきたのは、ゲイバーと違い、横になれる場所があるからなのだろうか。
 子どものころ、一度気まぐれに餌をやっただけの子猫に、その後も道で見かけるたびいつも餌をねだられたことを思い出す。何も持っていなくて餌をやることができないときも、か細い声で鳴きながら、いつまでもいつまでも後を着いてきた。あのとき困惑する庄司に、母親はこうさとしたものだ。「無責任に餌をあげたりするから懐いちゃったのよ。かわいそうでしょ。全部自分の責任よ」、と。ならば今回も、道でつい牧野を拾ってしまった自分が悪かったのだろうか。
 牧野は相変わらず強情な顔つきで、まだカップのえ 柄をもてあそ弄んでいる。どう見ても簡単に出て行ってくれそうもない様子だった。
 軽い頭痛をこらえ、庄司は少し冷静に考えてみることにした。仮にこの部屋から牧野を無理に叩き出したら、彼はどこへ行くのだろうか。先ほどの口調では、自宅に帰ることはまず有り得ないだろう。ならば、またゲイバーに通うのだろうか。そして庄司や他の記者たちによって、その姿を面白おかしく記事に書き立てられてしまうのだろうか。
 そのくらいなら、いっそ牧野はこの部屋にいてくれたほうがいいのではないかという思いが頭をよぎる。この部屋に泊める代わりに本当に牧野の夜歩きが止まるのであれば、必然的に彼のゲイ疑惑は立証が難しくなって、記事に取り上げることもできなくなるかもしれない。そうすれば、当然堀内もこのネタを諦めざるを得なくなる。
(……悪くないかもな)
 しょせん、庄司は牧野のファンだった。彼の傲慢な態度は多少どころではなく気に障るが、売れっ子の芸能人ならばこのくらいマシなほうなのかもしれない。牧野が同性愛者であるという点は若干……、いやかなり気になるが、彼ほどの天才ならば、どこか一般人と異なる部分があるのも当然なのではないかとも思えた。要は牧野は寝場所が欲しいだけなのだ。それくらいならいくら狭い部屋でも、畳一畳分くらいのスペースを貸してやっても構わないのではないか。

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