琥珀色【前編】
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アパートに隣接した駐車場に車を停めて外に出ると、吐き出す息が白く濁って見えた。もうすっかり冬だなと思いつつ、早く部屋に帰って冷えた体を温めたくて、庄司は足を速める。だが足早にアパートの階段を上り、何気なく顔を上げたとき、奥の角部屋である自分の部屋の前に誰かが座り込んでいることに気づき、ふと足を止めた。
抱え込んだ両膝の上で腕を組み、深く顔を伏せたその姿に、咄嗟にデジャブを覚える。なにやら昨日、全く同じような格好で寝ていた人間を路上で助けたような気がする。というか、あれは間違いなく……。
「――牧野さん!?」
考える前に、唇からその名前が飛び出していた。ひっそりと静かな夜の空気を突然破った声にピクっと肩を震わせて、相手がゆっくりと顔を上げる。眼鏡の蔓が、アパートの外廊下に取り付けられた電灯の光を白く弾く。
そこにいたのはやはり、今朝この場所で別れたばかりの牧野秋久だった。まったく予期していなかった再会に、庄司は心臓がひっくり返るほど驚いた。
「どうしたんですか? なんでここに」
慌てて駆け寄る庄司を見上げた牧野の顔に、そのときふいに奇妙な表情が浮き上がり、揺らいだ。眉をひそめ、唇をわずかに震わせて、感情が溢れ出すのを堪えるようにグッと歯を噛みしめたその顔がまるで泣くのを必死に堪えている子どものように見え、庄司は思いがけず胸を衝かれて、その場に立ち竦んでしまう。
「牧野さん……?」
不用意に触れるのが躊躇われるほど脆い表情に不安を感じて、庄司が恐々声をかけると、牧野も自分が今どんな顔をしているかに気づいたようだった。自らも驚いたように小さく息を呑んだかと思うと、次の瞬間にはさっと全ての表情を消し、硬い無表情になってしまう。
その切り替えのあまりの見事さに庄司が呆気にとられている前で、コートの裾の埃を払いながら牧野がゆっくりと立ち上がった。寒さで体が強張ってしまったのか、ややぎごちない動きで地面に置いてあったボストンバッグを重そうに持ち上げる。
旅行用と思しきしっかりした作りの黒の鞄は、昨日の牧野が財布と携帯だけを持って動いていたことが信じられなくなるほどの大きさで、しかも何をそんなに中に入れているのか、パンパンに膨れ上がっていた。
それを肩に掛けながら、寒さに蒼ざめた唇を動かして、牧野が不機嫌そうに呟いた。少しかすれた声だった。
「ずいぶん帰りが遅いんだな」
「え? ええ、まあ……。仕事が遅くまで掛かったので」
まるで咎めるような声の響きに戸惑いながら庄司が答えると、「そうか」とポツリと呟き、牧野はまたむっすりと押し黙ってしまう。思い詰めたような顔でじっと地面を見つめ、急にちらっと庄司の顔を見上げたかと思うと、また視線を下に落としてしまった。
何か言いたいことがあるのに躊躇っているようなその様子に、庄司は助け舟を出すつもりで尋ねてみた。
「牧野さん、もしかして今朝部屋に何か忘れ物でもしたんですか? それならすぐに取って来ますけど」
ここに用があるとしたらそれぐらいしかないだろうと思ったのだが、牧野は首を横に振ると、逆に聞いてきた。
「別に。何かそれらしいものでも残っていたのか」
「いえ、そういうわけじゃないですけど、じゃあ何でここに」
尋ねると、また困った顔をして黙り込んでしまう。訳がわからず、庄司もすっかり途方に暮れてしまった。こんな古びたアパートの外廊下で牧野と向かい合って立っていると、まるで自分がドラマの中の登場人物になってしまったような気がしてくる。妙に現実感に欠ける状況だった。
だがしばらくそのままでいるうちに、庄司は自分より少し低い位置にある薄い肩が小さく震えていることに気づいて、はっと我に返った。頑固そうに引き結ばれた唇は少し蒼褪めている。この人はいったい何時間、ここにああして座っていたのだろう。
急に牧野の体が心配になってきて、庄司は急いで部屋の鍵を取り出すと、鍵穴に差し込みながら言った。
「とにかく中に入りましょう。こんなところにいつまでも立ってたら風邪を引きます」
半ば強引に腕を引くと、牧野は年に見合わない頼りない瞳で庄司を見上げ、ようやく少しほっとした顔をして、一度だけ頷いた。手に触れたコートもひんやりと冷えている。自分が牧野を取材するためにSARABAで酒を飲んでいる間に、当の本人がこんなところで凍えていたのかと思うと、押し殺していた罪悪感がまた蘇り、胸をきりきり締めつけた。
「どうぞ」
招きいれた部屋の中は、当然暗く冷え切っていた。急いで灯かりと暖房のスイッチを入れ、カーテンを閉めて、やかんを火にかける。慌ただしく庄司が動いている間、牧野は導かれたヒーターの前でぼうっと突っ立っていた。
「それで、いったい今晩はどうしたんですか、牧野さん。どんな用事で」
ひととおりすべきことが終わり、落ち着いてから、庄司は改めて牧野に尋ねてみた。聞かれた牧野はまたしばらく言葉に悩む素振りを見せていたが、ようやく口を開くと、急に自棄になったように、口早に言い出した。
「――用がなくちゃ、来ちゃいけないのか」
「え?」
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