琥珀色【前編】

 ――電話の音が聞こえてきて、庄司はほの明るい光の中、目を覚ました。
 部屋に取り付けてある電話機からの音ではない。携帯電話の着信音だ。ただ自分の設定している音とは違う気がして、首をかしげながら庄司は手探りで携帯を探した。しかし手の届く範囲内には何もないようで、手ごたえがない。
 仕方なく眠い目をこすりながら起き上がり、音が聞こえてくる窓際を見上げる。そこにはカーテンレールにハンガーのフックを引っ掛けて、見慣れないコートが吊るされていた。どうやら音の発信源は、そのコートのポケットの中らしい。
 どうしてあんなコートが俺の部屋にと、まだ覚めきらない頭でぼんやりと思い、ややして昨夜起こった一連の出来事をハッと思い出す。一気に目が覚め、慌てて傍らを振り返ると、布団の端から黒い髪だけを覗かせ、猫のように小さく体を丸めて、男がひとり眠っていた。
(そうだった。俺は昨日道で牧野秋久を拾ったんだった)
 ありえないその事実に改めて困惑を覚えながらも急いで布団から抜け出し、庄司はコートのポケットを探った。取り出した小さな機体は甲高い音で鳴り響きながら、せわしなく赤いランプを明滅させている。
 持ち主が出ない限り、どうあっても切れないぞと主張するかのごとく、延々と鳴り続けているその携帯を手に、さてこれを一体どうしたものかと悩んでいると、突然足もとから低い声が響いてきて庄司を驚かせた。
「……その携帯、俺の」
 寝ぼけたようなかすれ声とともに、上掛けの中から手だけをにゅっと突き出し、くぐもった声で「貸して」と言う。庄司が大人しく携帯を渡すと、軽くうめきながら、牧野がようやく布団の外に顔だけを出した。近視の人間独特の仕草で、未だ鳴り続けている携帯にぎりぎりまで目を近づけ、ディスプレイの表示を確認して、「マネージャーか……」と誰にともなく呟く。
 面倒くさそうに携帯のフリップを開くと、牧野は凝然と突っ立って自分を見下ろしている庄司をまるで無視したまま、電話の向こうの相手と何か会話を始めた。事務所の人間と今日これからの仕事の予定と、現場への移動手段に関して打ち合わせているようだった。慣れきった会話なのか話を要領よく終え、電話を切るやいなや、牧野がこめかみを押さえて呻く。
「くそ、頭痛がする……」
 昨夜道で行き倒れていたくらいだから、まず間違いなく二日酔いなのだろう。不快そうに顔をしかめながら、のろのろと身を起こす。寝癖を気にするように二三度髪を撫でつけ、眼鏡を欠くためか寝起きであるためか、どこかおぼつかない視線でようやく庄司のほうに顔を向けた。
 ふと、何かに気を取られたように牧野の動きが止まった。二三度瞬きし、眼をすがめてまじまじとこちらを見詰める。目の前の薄い唇が開いた。
「――眼鏡」
「え?」
「俺の眼鏡はないか。昨夜までは掛けていたはずだけど」
「ああ、はい」
 踏んづけて壊してしまったらまずいと、眼鏡は昨夜寝る前に壁際のテレビの上に避難させておいた。取ってやって手渡すと、牧野は礼も言わずに眼鏡を受け取り、その細面に装着する。眼鏡を掛けた牧野の顔に、庄司は妙に感動した。これがなくては、どうも本物であるような気がしない。朝の光の中でその姿を見れば、やはりファン心理で胸が高鳴る。
 牧野もまた、眼鏡を掛けてクリアな視界を得たことで、意識がはっきりしてきたようだった。改めて庄司の顔をじっくり眺めると、思い出したように呟く。
「君は、昨日店で会ったな」
 その言葉に庄司は驚いた。確かに店内で一瞬目線が合いはしたが、照明が暗かったこともあり、まさか記憶に留めていてくれたとは思わなかった。
「ええ。よく覚えてましたね」
「……まあ、なんとなく」
 気のない声で牧野が答える。その落ち着き払った態度に、庄司は内心困惑を覚えていた。見知らぬ部屋で、赤の他人と同じ布団の中で目覚めたら、普通もう少し戸惑ったり驚いたりするものではないだろうか。だが牧野は動揺した素振りをまったくみせないままに、醒めた声でいきなりとんでもないことを聞いてきた。
「それで、何で君は俺に手を出していないんだ?」
「――は?」
 問いの意味が分からず、庄司は首をひねった。すると自分の体のあちこちを確認するように触り、着衣の乱れを確かめながら、牧野がなおも問い掛けてくる。
「それとももしかしてしたのか? どうもそういう感じがしないんだが」
「し、シタって、一体何を……」
 なんとなく答えを予測しながらも恐る恐る尋ねる庄司に、サラリとこともなげに牧野は言い放った。
「何って、セックス。それが目的で俺をここに連れ込んだんじゃないのか?」
「はあぁ!?」
 ここに至って庄司はようやく、牧野が自分のことをお仲間だと思い込んでいることに気がついた。
 考えてみれば、昨日ゲイバーで会ったことを牧野が覚えているならば、庄司のことを同性愛者だと思い込んでしまうのも道理である。道理ではあるが……。
 自分は親切心から彼を助けてやったというのに、スケベな目的から部屋まで連れ込んだと判断されてしまうのは、著しく不本意なものがあった。動じるあまり額に汗までにじませながら、庄司は己の潔白を必死で主張する。
「何もしていませんよ! 昨夜は指一本触れず、キヨラカな夜を過ごしました!!」
「どうして?」
「へ?」
「何で手を出さなかったんだ。俺は君のタイプじゃなかったということか? ならどうしてここまで連れ込んだんだ」
「……」
 もはや言葉もない。この男は、酔って眠り込んでいる間に、男に犯されてしまっても平気なのだろうか。むしろ手を出されなかったことを不思議に思うような言いざまに呆れながら、庄司はなんとか言い返した。
「何でって、そりゃ心配だったからですよ。もう冬だっていうのに酔っ払って路上で寝転がっていれば、下手すれば冷たくなって今頃死んでいます。大体牧野さん、あなた今連ドラにも出演しているでしょう。体調を保つとかコンディションを整えるとか、そういう責任感とかプロ意識みたいなものは無いんですか!?」
「なんだ、俺のことを知っているのか」
「そりゃまあ……、あなた有名だし」
 大ファンであることを直接本人に伝えるのはなんとなく面映く、控えめに庄司が肯定すると、牧野は納得したように頷いた。
「ああ、だから店で俺の顔をじっと見ていたのか。よくあることだけど、もしかしたら俺に脈があるんじゃないかって、少しいい気になっていたのに」
(……脈って何だよ)
 やはり自分はスケベ心から人命救助をしたと判断されるところだったのかと、悲しくなった。そして自分が純粋なファン心理で牧野に見入っていたのを、当人はそんな風に受け止めていたのかと思うと、軽く裏切られたような気分まで襲ってくる。腹立ちのあまり、庄司は思わず目の前の男を叱り飛ばしていた。
「ていうか、牧野さん! 大体あなたは芸能人だってのに、無防備すぎます。もっと気をつけて下さい。そんな行き当たりばったりなことばかりしてたら、あっという間にスポーツ紙とか週刊誌の記者にすっぱ抜かれますよ!」
 例えば俺なんかにという言葉は慎ましく胸の内に仕舞い、庄司なりに牧野の身を案じて言った台詞に、敵はとんでもない言葉を返してきた。
「じゃあ、君がこれから俺の相手をしてくれるか」
「……はい?」
「俺も決まった相手がいるならその方がいい。君がこれから相手をしてくれるって言うなら……」
 牧野が皆まで言う前に、拒絶を示して庄司は首をおもいきり横に振る。
「なんだ、やはり俺は君のタイプじゃないのか。残念だ」
 大して残念ではなさそうな口調で言うと、また牧野は寝癖を気にするような仕草をしながら、部屋の中をぐるっと見回した。そして朝っぱらからの珍問答にぐったりしている庄司に、「洗面所を貸してくれ」と言ってくる。
「洗面所はありません。流しの壁に鏡がかけてあるんで、俺はいつもそこで身支度をしています。髭剃りの道具と、洗面の道具はキッチンの隅に一式まとまってますから、よければ貸しますけど」
「……洗面所が、ないのか」
 いったいどういう部屋なんだと、牧野が口の中で呟くのを、しっかりと庄司は聞き取った。
 一人暮らしの1Kの部屋で、別に珍しいことではないと思うのだが、結婚した際に広尾の高級住宅地に新居を構えた牧野の常識では、およそありえないことだったらしい。
 不満そうに顔をしかめながらも小さな鏡の前に立つと、牧野は手櫛でちょいちょいと髪をいじり、眼鏡を脇に置いて流しで大雑把に顔を洗った。無言のまま手を出してタオルを要求してくる彼に、急いで洗い立てのハンドタオルを渡してやると、畳んだままのそれでごしごしと顔をこする。強くこすりすぎて、少し顔が赤らんでしまっているのがなんとなくおかしい。
 もう一度鏡を覗き込み、とりあえず格好はついたと判断したのだろう。眼鏡を装着し直してまたずかずかと部屋に戻ってきた牧野は、吊るしてあったコートを無造作に羽織った。携帯と財布だけの持ち物を確認している彼に「帰るんですか」と聞くと、頷かれる。
「君もさっき言っていたドラマの収録がある」
 言いながらチラッと左腕の時計を確認した牧野につられて脇から覗いてみると、時刻はまだ朝の六時前だった。電話のせいでつい早起きしてしまったが、そうすると今日はまだ四時間も寝ていない計算になる。途端に眠気がぶり返してきた庄司に、牧野は今更な質問をしてきた。
「――ところで、ここは地理的にいったいどこら辺なんだ?」



 すぐ側を走る、タクシーを捕まえられる大通りを教えてやると、牧野はやはりろくすっぽ礼も言わないまま、淡々と部屋を出て行った。朝の冷たく澄んだ空気の中をせかせかした足取りで去っていく、まっすぐに伸びたその背中を扉にもたれて見送りながら、庄司は仕事の先行きを考えて、襲い掛かってくる暗澹あんたんとした気分と闘っていた。
 とりあえず牧野には自分の職業がばれなかったのだから、堀内に命じられた取材をこのまま続けることはできる。いや、むしろ牧野と直接知り合う機会を得たことで、仕事は格段にやりやすくなったはずだ。
 再びSARABAに赴いて牧野に会うことができたら、一晩泊めてやったことをきっかけに、あの無愛想な男とも会話のひとつや二つはできるだろう。その際に彼の家庭の事情をうまく聞きだせば、堀内も大喜びの立派な記事ができあがるはずだ。
 ……うんざりした。ただでさえ嫌だった仕事のこれからの段取りがはっきり見えてしまうと、より一層気分が滅入ってくる。
 今日も牧野はSARABAに来るのだろうか。来ないでくれればいいと切実に願いながら、出勤までのわずかな時間、もう一度寝なおすために庄司は部屋の中に戻った。

-Powered by HTML DWARF-