琥珀色【前編】
6
「ひっ!」
振り返った顔はまだ若い。頭ひとつ分以上高い位置から見下ろしてくる庄司のシルエットに怯えながら、男がじりじりと後退ろうとする。それを許さずに問答無用で手をひねり上げてやると、いささか大袈裟な悲鳴を上げて男は財布を取り落とした。
すかさず拾い上げたが、財布を拾うために手を離した瞬間に、捕らえていた男は脱兎のごとく逃げ出してしまった。あえて追いかける必要性を感じず、それよりもまずはこちらが先だと、庄司は路上に座り込んだままの牧野の体を揺さぶる。
「大丈夫ですか?」と何度か繰り返していると、少ししてから軽いうめき声が上がる。伏せられていたまぶたが弱く瞬き、意識のはっきりしない、ぼんやりとした眼が庄司の姿をとらえた。憧れのスターを前に、条件反射のように庄司の胸がときめいた。
テレビでも映画でも、これまで何度も何度も見てきた顔だが、やはりこれほどの至近距離から生で見ると感じ方がまったく違う。きつい印象のある一重の切れ長の目が、今はどこかぼうっとしているのが奇妙にアンバランスだった。
画面や紙媒体を通してではけして伝わってこない、牧野秋久の体温を皮膚から直接感じ、自分の手が感動のあまりわずかに震えていることを知って、庄司は思わず苦笑してしまう。
と、そのとき、寝ぼけたように牧野の唇が小さく動いた。
「――がく?」
「え?」
呟かれた言葉がよく聞き取れなくて、牧野の口元に耳を寄せる。その庄司の首に、するりと牧野の腕が回された。
「え、ちょっと、牧野さん!?」
焦ってもがいたが、牧野は彼にしがみついたまま、再び路上で寝入ってしまった。
「牧野さん、ここで寝ると危ないですよ。起きてください。ねえちょっと、牧野さーん」
必死になって呼びかけても、もう一切反応がない。形のいい唇からすーすーと寝息を漏らし、どこか幸せそうな微笑さえ浮かべている牧野を前に、庄司は心底途方に暮れてしまった。
「こういう場合、いったいどうすればいいんだ……?」
とにかく首に絡まった牧野の腕を外そうとしたが、しっかりとしがみつかれていて容易に外れない。四苦八苦していると後ろからひゅーぅと、口笛が飛んできた。
振り返ると腕を組んだ通りすがりの男同士のカップルが、からかいを含んだ眼で自分たちを見ている。もしかして自分たちもホモのカップルに見られてしまったのかと、庄司はあらぬ誤解を受けて狼狽した。慌てて幾分腕に力を込めると、小さな唸り声を上げて、牧野の腕がようやく外れる。しかし眼を覚ます様子は相変わらずない。
どうしたらこんな場所で熟睡できるんだとあきれ果てながらも、庄司は悩んだ。季節はすでに初冬を迎えている。しかも今晩はとりわけ風が強く、冷え込みが厳しかった。そんな日に酔っ払いをこんな路上に放置して、体に差し障りないはずがない。
よしんば風邪を引かずにすんだとしても、先ほどのようにスリにあったり、通りすがりの男の毒牙にかかってしまうかもしれない。そんなことは考えただけでもぞっとした。たとえゲイであっても、牧野は庄司にとって、自分の人生を変えられたほどの憧れの俳優だ。万が一にも、危険な目になどあって欲しくはない。
散々ためらい、何度も軽率なのではないかと自分に問い掛けて、最後の最後に庄司は決心した。力が抜けてぐんにゃりとした牧野の体を支え、自分にもたれかけさせながら強引に立ち上がらせる。
「牧野さん。歩けるようなら歩いてください。移動しますから」
一応呼びかけてみるが、やはりまともな反応は返ってこなかった。手の掛かる酔っ払いをずるずると引きずって、庄司はすぐ近くに停めてあった自分の車の後部座席に、何とか牧野の体を乗り込ませた。
(……なんか傍から見れば俺こそ、男を酔わせてどこかにしけこもうとしているやつに見えかねないな)
客観的にこの状況を分析して情けない気分になりながら、シートに慎重に牧野の痩身を横たえ、自分は運転席に移動して車を出した。意識のない牧野が転がり落ちてしまわないよう、なるべく丁寧に車を動かして自分のアパートに向かう。もう今日は自分のところに泊めてしまうしかないと腹をくくったのだ。牧野の自宅がどこにあるのかすぐに分からない以上、やむをえない措置だった。
学生時代から住んでいるアパートには、二〇分とかからずに到着した。いったん車を建物の前に路上駐車し、意識のない牧野の体を抱えて、よっこらせと肩に背負う。すぐそこにある、申し訳程度の雨よけがついた鉄製の外階段を見上げ、思わずため息をついた。自分の部屋が二階にあることを、このときほど恨めしく思ったことはない。
大学まで運動部に入っていたので、体力にはそれなりに自信があるものの、意識のない人間の重さというのは半端ではない。しかもいくら痩せているとはいえ、相手は一七〇センチ台の身長を持つ成人男性だ。覚悟を決めて牧野を背負いながら階段を上りだしたが、一段上がるたびずっしりとした負荷が全身に掛かってくる。なんとか部屋の前にたどり着いた時には、この寒いのに庄司は全身に汗をかいてしまっていた。
肩で息をしながら部屋の鍵を開け、とりあえず入ってすぐのところにあるキッチンの床に牧野の体を横たえてから、立ち戻って車を駐車場に停めなおす。それから再度部屋に戻ってきても、相変わらず牧野は目覚める様子もなかった。
「芸能人がこんな無防備に寝入っていていいのかよ」
その体を奥の畳敷きの部屋に移動させてやりながら、庄司はぼやいた。どう考えてもいいわけがない。取材を任されたのが自分でなかったら、今ごろどうなっていたことか。よりにもよって二丁目のゲイバーで飲みすぎて、酔っ払って路上で寝てしまい、あげくにスリに財布を盗られかけても気づかずに眠っていたなど、これだけでもう十分小さな記事くらいなら書けてしまう。
「まあ、記事にする気はないからいいけどさ」
牧野を拾ったときから、そのことだけは決めていた。いくばくかの呵責は感じるが、今回に限っては堀内に命じられた以上の取材をするつもりはなかった。十年近く追いかけた俳優を守るか、スクープ記事を取って堀内に喜ばれるか、どちらを選ぶかは自明の理だ。それに店外に出た牧野を撮影したところまでで本日の仕事は終了で、その後のことはプライベートでのことと判断していいだろう。私事をいちいち報告する義務もないはずだと、自分を強いて納得させる。
とにかく牧野をきちんと寝かせてやろうと思って、ふと戸惑った。今までこの狭い部屋に人を呼ぶことなど滅多になかったため、客用布団がないことを思い出したのだ。つまり自分が普段使っているものしか、この部屋には布団がない。スペースがないため、ソファーなども部屋には置いていない。
「布団の外で寝たら風邪引くよな、やっぱり。つまり一緒に寝るしかないのか……?」
思い返せば、最後にこの部屋の布団で一緒に寝たのは三ヶ月ほど前、当時付き合っていた彼女とだった。それからわずか一週間後に、仕事の多忙を理由に振られてしまったのだが、久しぶりに同衾する相手がよりによってゲイの男だとは……。なんともいえない複雑な気持ちになる。
庄司は闇雲に毛嫌いするほど同性愛に偏見があるわけではなかったが、なにしろ今までこの手の性癖の人間に滅多にお目にかかったことがなかったため、嫌悪感よりも戸惑いのほうが先立った。いくら相手が尊敬する俳優でも、庄司の身にもし貞操の危機が起こりでもしたら堪ったものではない。
「ゲイの芸能人か。シャレにもならん……」
とはいえ、他に布団がない以上仕方がなかった。まさかこれだけ体格差があって、襲われることもないだろうと割り切り、寝る支度を始める。
部屋の真ん中に置いてあった折畳式の小さな机を壁に立てかけ、台の上や、床に散らかしてあった社名や雑誌名入りの封筒や書類は、速やかに押入れの奥に隠した。週刊誌の記者であることが牧野にばれるのは、もっともまずい事態だ。
ざっと片付けてから空いたスペースに布団を敷くと、眠り込んだ牧野の上着を脱がせてやり、眼鏡も外してやってからそこに寝かしつける。牧野の寝息は、変わらずに腹立たしいほど安らかだった。
その寝顔を、庄司は改めて感慨深く眺めた。
(――本物なんだなあ)
まさかこの部屋に牧野秋久を迎える日が来るとは、思ってもみなかった。これだけ間近で見ると、芸能人も自分と同じ生身の人間なのだということが、つくづくと実感できる。生身の人間で、そして、男を愛せる男……。考えるほど、不思議な感じがした。
しばらくぼんやりその寝顔を見つめていた庄司だが、ふと目に入った時計の時間を見て我に返る。もうずいぶんいい時間だった。慌てて風呂に入り、自分も寝支度を整えてから布団に入ろうとしたのだが、その前に思い立って庄司は先ほど牧野の姿を写したデジカメを取り出した。
撮影した画像を確認してみると、遠景過ぎたり、顔が逆方向を向いていたりして、「言われて見れば牧野秋久にも見える」という程度の写真がほとんどである中に一枚だけ、牧野の顔をほぼ正面からとらえ、誰が見てもはっきりと彼であると断言できるような写真が混じっていた。
数分は悩んだ末、庄司はその写真を消去した。ディスプレイに表示された「画像を一件消去しました」というメッセージに、自分がとんでもなく職業意識に欠けた行いをしてしまったことを自覚する。
罪悪感と安堵の入り混じった複雑な気持ちを持て余しながら、庄司は自分も布団の中に身を滑り込ませた。牧野の体温に温められた布団は心地よかったが、やはり男ふたりで使うには狭すぎて、どうしても互いの肩や足が触れてしまう。
しばらくは相手の性癖を考えてしまって落ち着かなかった庄司だが、次第に困惑よりも眠気が勝ってきた。今日一日の椿事や、明日の仕事の段取りをぼんやりと考えているうちに、いつしか庄司はうとうとと眠りの世界に落ちていった。
※本文中に、主人公・庄司が飲酒運転を行っていると思しき記述があります※
飲酒運転は法令で禁じられた行為です。絶対に真似をしないでください。
不適切な記述をしてしまい、誠に申し訳ございません。深くお詫び申し上げます。
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