琥珀色【前編】
5
「えー、もう帰っちゃうのー?」
ジャケットを羽織って帰り支度をしていると、左側の席に座った青年が口元に手を当て、嫌々と全身をくねらせて嘆いた。そうしながらもいつの間に用意したものか、裏側に自分の連絡先を描いたコースターを庄司のコートのポケットに滑り込ませてくる。
「いつでも連絡して。僕いまフリーだから」
しなを作って媚びるように言ってきた彼に引きつった笑いを返し、大事な紹介人である吉永にはわずかに会釈だけをして、庄司は足早に出口に向かった。最後にもう一度牧野の席にちらりと視線をやったが、こちらには気づいてもいないようだった。
何時間も粘ったため、経費とはいえそこそこの値段になってしまった領収書の値段にため息をつく。むしろこちらがお触り代をもらいたいくらいだと、情けないことを考えながら店を出た。とっとと家に帰ろう、嫌なことは眠って忘れるに限ると思いながら駐車場に向かって歩いていると、マナーモードに設定してあった携帯が急にズボンのポケットで震えだした。
取り出してディスプレイを確認すれば、そこに表示されていたのは編集部の番号だった。一体何の用件だと嘆息しながら応答ボタンを押す。
「――もしもし?」
『よっす。取材は好調かー? 庄司』
「……堀内さん」
よほど取材の進行具合が気になるらしい。デスクの堀内からのご機嫌伺いだった。先ほどまでの庄司の心労など知る由もない、能天気な声が頭にきたがぐっとこらえる。
「好調といえば好調ですよ。牧野が早速店に顔を出しましたから」
店からそう離れていない場所だけに、極力声を潜め、足を速めながら庄司が報告すると、堀内は喜びに満ちた声を出した。
『マジで!? お前はなんて悪運の強いやつなんだ。ゲイの女神様の祝福があったに違いない。それで他に何か手に入れたネタは。もう店内じゃないよな?』
「何でゲイの神様が女なんだ」とつっこもうか、「そんな神様の祝福なんかお断りです」と言おうか、多少迷いながら、結局こういう輩はまともに相手にしないのが一番だと思い直す。軽く頭痛がした。
「牧野は店のママと話しているだけで、これといった動きもなさそうだったので、いまさっき店から出てきたところです。今日のところは他に収穫はありません」
そう言うと、間髪入れず、堀内から『阿呆!』と怒鳴られる。さすがにムッとした。
『牧野が店にいる内に出てきちまったのか、この根性なし!! 今からでも遅くないから、もう一度店内に戻ってやつの様子を窺え!』
「無理ですよ! 俺、ほとんどお触りバーのホステス状態だったんですよ!? こっちが目立てなくて大人しくしているのをいいことに、どいつもこいつもべたべたべたべた……。大体三時間近くもあのバーで一人で座っていて、一体どれだけ悪目立ちしたことか」
悲壮な庄司の告白も、堀内にとってはしょせん他人事だ。容赦なく責め立ててくる。
『なら怪しまれないように、適当に男の二、三人、引っ掛けてこればよかっただろうが』
「デスクにそれができるんなら、俺だってやってみせますよ!!」
最後の庄司の訴えは、ほとんど悲鳴だった。すっかり声を押し殺すことなど忘れている。すでに人気のない駐車場の手前まで来ていたので、通りすがりの人から不審な目で見られることだけは避けられたのが幸いだった。
堀内は話を自分の身に置き換えられた瞬間、多少矛先を引っ込めた。さすがの彼も、男に身を売ってまで取材に情熱をかける気は、まだなかったらしい。
『……まあ、初回からあんまり欲張ってもな。仕方ない。店に戻れないなら、せめて牧野が店から出る姿くらい押さえておけ。お前今日当然カメラを持ってきているな?』
「はい」
無意識のうちに上着のポケットを手探りし、固い感触を確認してから頷く。
『それでゲイバー通いの証拠写真でも撮って来い。そのくらいもできなかったら、本当に容赦しないからな』
「でもこの店、外見もごく普通のバーですよ? 写真なんか撮ったって別になんとも思われないんじゃ」
『そこを怪しく見えるように、思わせぶりな記事を書くのが俺たちの仕事なんだよ。いいから素直に牧野の出待ちをしやがれ!』
一方的に告げられ、堀内のほうから電話を切られた。
その捨て台詞に本当にろくでもない仕事だと思いながら、終わったと思った本日の仕事を早速延長されることになった庄司は深々とため息を漏らす。しかし上司の命令に逆らうわけにはいかず、愛車を駐車場から出すと、庄司はもう一度嫌々SARABAに向かった。
店の近くまで行ってから周囲を見渡し、車を止められて、なおかつ人目につかなそうな撮影ポイントを探す。ややしてよさそうな場所を見つけると、庄司は店側にある助手席に体を移し、スモークを貼った窓越しに外を見ながら、牧野を待つ体勢に入った。
その間にも、店にはまばらに人が出入りを繰り返している。それらは当然すべてが男で、改めて牧野秋久がゲイであるのという事実を認識させられた。店から出てくるとき、牧野が彼らのうちの誰かと腕でも組んでいたらどうしようかと、ひどく気が揉める。そのままラブホテルにでもしけこまれた日には、簡単には立ち直れそうもない。絵的には当然そちらのほうがおいしくて、堀内は躍り上がって喜ぶのだろうが……。
悶々としながらも待つこと数時間。何十度めかに開いたドアの向こうから、とうとう牧野が姿を現した。幸いにも彼は一人で、そのことにほっとしながらも、庄司は堀内に命じられたとおりデジカメのシャッターを切る。周囲に気づかれないようにフラッシュは切ってあるが、店の明かりがある上、街灯が皓々とあたりを照らしているので、撮影には支障がなかった。そうやって二三枚撮る内に、デジカメのモニタ越しに覗く牧野の姿が、やけにふらふらしていることに庄司は気づいた。
酔っているのだろうか、足取りが定まっていない。ゆっくりした足取りで右に傾き左に傾き、数メートルほど歩いたところで汚れた壁にもたれかかったと思ったら、そのまま壁に沿ってずるずると背中を滑らし、ついには道端に座り込んでしまった。
車中からその姿を見守っていた庄司は焦った。座り込んだあと、牧野は膝を抱え込み、そこに顔をうずめるようにしたまま動かない。酔っ払いに慣れきっている通行人たちは、具合の悪そうな彼に見向きもせずに次々と通り過ぎていってしまう。
まだ店の近くなのだから、知り合いを呼んで助けてもらえばいいのにと庄司は思ったが、牧野にその気がないのか、それともすでに意識が無いのか、数分が経過してもじっと動かないままだ。
だんだんと不安がかさ嵩を増してきた。ひょっとしたら急性アルコール中毒かもしれない。それなら一刻も早く病院に連れて行く必要がある。
じりじりしながらも、たった今隠し撮りしていた取材対象に無邪気に近づくのにも躊躇われて車を降りることができないでいると、何人めかに牧野の前を通り過ぎようとした通行人が、ふとその足を止めた。
ようやく良心のある人間が現れたとホッとしてそのまま様子を見守っていると、その男は妙な動きを始めた。ぐったりしている牧野を無言でじっと観察していたかと思うと、やがておもむろに手を伸ばして、意識のない体をさぐり出す。
場所が場所なだけによもや痴漢かと庄司は仰天したが、よく見ると探っているのは牧野のコートのポケットだということに気づいた。しかもそこに目的のものがないと察するや、男は今度はコートの下にまで手を伸ばし、牧野のズボンや、上着のポケットまで漁り始める。
もうためらっているような場合ではなかった。カメラを放り出して車を飛び降ると、庄司はふたりのもとに一直線に駆け寄る。そしてついに牧野のズボンのポケットの中から黒革の財布を見つけ出し、ほくそ笑んでいた男の手を、後ろから思い切り掴んだ。
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