琥珀色【前編】
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――そして恐る恐る扉を潜ったSARABAの店内。暖かい炎の色の間接照明に柔らかく照らし出されたカウンターのスツールに腰掛けながら、庄司の視線はたった今店内に入ってきた男の姿に釘付けになっていた。
(……本当に来てしまった)
心の中で絶望のうめき声をあげる。
SARABAに入店してから、もうすでに数時間が経過している。無視しても無視しても粘っこく絡みついてくる男たちの視線にいい加減理性がパンクしそうになって、席を立つ寸前だった庄司が出入り口に視線を向けたちょうどそのとき、静かに扉を開けてその男は入ってきた。今夜のターゲットである牧野秋久、その人だった。
(よりによって、一回目の来店で巡り合えるなんて。これは喜ぶべきことなのか……?)
多分そうなのだろうと思いつつも、できれば尊敬する俳優のゲイ疑惑を払拭したかった庄司にとっては、到底素直に喜べる事態ではない。
派手ではないがすっきりと整った容貌。少し神経質そうにも見える吊り上った一重の眼は、今は細いフレームの上品な眼鏡の奥に隠されていて、その印象を物柔らかなものにしている。短めに切りそろえられた髪型も、ハーフコートを脱いだ下に着込んだ、無地のシャツに上質のウールパンツの服装も清潔そのものだったが、故意にだろうか、ずいぶんと地味な印象に抑えてあった。
その甲斐あってか、薄暗い店内ではほとんど彼の姿は目立たない。一歩店内に入った瞬間から見事に店の空気に溶け込んでしまった牧野に、他の客は気づいているそぶりもなかった。庄司も、もし注意していなければ見過ごしてしまったかもしれない。それでも一度気づいてしまえば、独特のオーラをまとった彼は、やはりどこか特異な存在感を放っている気がする。もっともそれは単純に、庄司のファン心理のせいかもしれなかったが。
牧野は店内の誰にも声を掛けることなく、テーブルの間を器用に人を避けて進むと、店の一番奥まった位置にある席に座った。その席は庄司が来店したときからずっとリザーブされていたものだった。すぐにカウンターの中に立っていた、どこから見ても男性の「ママ」がお絞りと簡単なつまみ、それに何か酒の入ったグラスを用意して牧野のもとに向かう。
庄司がその様子をそれとなく見守っていると、グラスを受け取ってママと挨拶を交わしていた牧野が、ふとこちらを見た。
どきりとして、グラスを口に当てた姿勢のままで固まってしまった庄司の姿を一撫でし、しかしすぐにその視線は逸らされる。安堵しながらも、少し拍子抜けして庄司が体の力を抜いたとき、左側の席から肩にしなだれかかってきたものがいて、庄司は反射的にそちらを振り返った。
「どこ見ているの〜? ねぇー、いい加減名前教えてよぉ」
そこに座っているのは、もう寒い季節だというのにやけに露出度の高い服を着た、茶髪の美青年だった。童顔で、男にしては可愛らしい顔立ちだが、あまり規則正しい生活をしていないのか、白い肌にはよく見ると荒れが目立つ。拗ねたような上目遣いで庄司を見詰め、美青年は語尾を伸ばした言葉で切なげに口説いてきた。
「名前が駄目なら、携帯の番号だけでもいいからさあ。ねぇ、僕ってそんなに魅力ない? 番号教えるだけでも嫌なのぉ」
「い、いや、そういうわけじゃないけど……」
番号を教えてしまえばあとで何が起きるのか、考えるだに怖い。頬を赤らめさせて妙に熱心に迫ってくる青年にどう対処すればいいのか分からず、ひたすらうろたえていると、今度は太ももの上に誰かの手が触れてきてギョッとした。
「……っ!?」
慌てて逆隣を見れば、右側の席でゆっくり酒を飲んでいたサラリーマン風の中年男が、さわやかな微笑を浮かべてこちらを見ている。さりげなく、しかし執拗に庄司の太ももを撫でさする彼の左手の薬指には、プラチナの土台に小さなダイヤをいくつか嵌め込んだ、高そうな指輪が光っていた。
名刺に書かれていた住所に嫌々ながら向かった庄司を、店の前で待っていたのがこの男だ。この店の常連で吉永というらしい彼は、庄司の姿を遠目にとらえた途端目を細め、親しげに近づいてきた。
堀内がどういうルートでつなぎを取ったのかは知らないが、向こうはどうも庄司をまだ学生だと思っているらしく、「聞いているよ。大学に入ってから男同士の恋愛に目覚めたものの、どうしたらいいのか分からなくて、ここに来たんだって? 大丈夫。何なら僕が手取り足取り、色々優しく教えてあげるから」と、手でも足でもなく、まず庄司の腰に手を伸ばしてきた積極的な男だ。
そんな話は一切聞いていなかった庄司はなんともこたえようなく、彼に付添われてとにかく店内に入ったが、それからもずっと吉永は庄司の側を離れず、さっきから逆隣に座る美少年と交互に庄司にセクハラと口説き文句を繰り返してくる。それはもう、悪夢のような辛さだった。
いまも吉原の手は太ももに添えられたまま、徐々に上のほうに向かって動いている。不穏な気配を察知して、庄司は咄嗟にその手首を掴んだ。顔からはすっかり血の気が引いている。吉原は微笑を深めると、セクハラしていたのとは逆の手で、庄司の手をそっと握り締めた。脊髄の中を氷が落下していくような、とてつもない寒気が庄司を襲った。
「ちょっと〜、吉永さん何やってんのよ。子猫ちゃんが怯えているわよ、やめてあげなさい、よっ!」
震え上がっている庄司を見かねたのか、小太りの店員がカウンターの向こう側から身を乗り出してきた。「よっ!」のところで軽く吉永の手を叩き落として、助けてくれる。しかし子猫ちゃん扱いされてしまった庄司は、カルチャーショックと度重なるセクハラの恐ろしさに言葉もない。
そもそも助けてくれたその店員にしたところで、先ほどから庄司にグラスを渡す際には必ず自分の両手を添えておいて、受け取ろうとした瞬間、庄司の手の甲を撫でさすることを忘れないのだ。その度に庄司はグラスを落としかけていた。
はっきり言って、店内に入ったときから庄司はモテていた。いや、モテまくっていた。
筋肉がバランスよくついた一八〇センチを超える長身に、男たちは先ほどから触りたくて仕方ない様子を見せているし、切れ長の目が印象的な整った顔に、うっとりと見入っている客も多い。
その水際立った容姿に、店内は先ほどから浮かれきっているのだ。牧野が入店してきてもあまり注意を払う者がいなかったのは、庄司に目線が集中していたせいも少しはあったかもしれない。
昔から女にはそこそこモテる自覚があったが、まさか自分がこれほど男にモテるタイプとは知らなかったと、庄司は重いため息を吐いた。そんな事実、けして知りたくなかった。
野獣の群れに囲まれた羊のような心境で、ちらりと牧野のほうを窺ってみると、彼はママと穏やかに話をしているところだった。その姿を仮に隠し撮りしてみても、ただ友人と酒を飲んでいるようにしか見えないだろう。ママは外見はごく普通の男だ。
むしろ今のこの自分の姿を撮ったほうが、よほどそれらしい写真が撮れるだろうと、かなり自虐的な気分で庄司は思った。それでも仕事のためにもう少しくらい粘ろうと一度は健気に決心したのだったが、吉永の手がシャツの下をかいくぐり、更にはズボンの奥にまで伸びてこようとしたところで、庄司はあっさりと決意を翻した。
急いてはことを仕損じる。今日はこれくらいまでにしておいて、明日以降またじっくりと取材していけばいいだろうと強引に自分を納得させ、これ以上のセクハラから逃れるために、庄司は慌しく席を立った。
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