琥珀色【前編】

「牧野秋久って……、ゲイだったんですか?」
「あー、有名だろ。まさか知らなかったのか?」
 知らなかった。ショックだった。
 牧野秋久は、実力派として知られている舞台出身の俳優だ。もともとはコアなファンの多かった役者だったが、最近はテレビや映画での露出が増えたため、知名度もかなり上がってきている。
 本格的に演技の勉強をしてきただけあって台詞まわしも抜群にうまいため、紀行番組のナレーションなどをする機会も多く、三〇半ばという年齢のためもあってかアイドルじみた派手な目立ち方はしていないものの、二〇代後半から中高年層にかけて支持する男女が多い。その人気にはもちろん、彼の背筋の伸びたすらりとした肢体や、眼鏡の似合う理知的な風貌も大きく影響していることだろう。
 そして庄司もまた、牧野がまだ二〇代前半でどこか神経質な印象が強かった頃から、彼の演技の熱烈なファンだった。
 舞台の上で気が狂ったような激情を見せる牧野の演技に、まるで襲われるように呑み込まれ、魅せられてしまったのは庄司がまだ高校生だったころ。それ以来ずっと、牧野は彼にとって特別な存在感を持つ俳優だ。
 就職試験の折、最終面接の席上で試験官から「この出版社に入ったらどんな仕事をしたいか」と尋ねられ、「記者になって、牧野秋久の演技の素晴らしさを世の中に知らしめたい」と、熱く語ったのは伊達ではない。何しろその場にいた五人の試験官のうち三人までが、庄司の熱い解説に釣られてその後何となく牧野の演技に注目するようになり、ついには同じように彼のファンになってしまったほどなのだ。
 来年の三月には久々に牧野が舞台に立つという情報を得て、昨日嬉々としてチケットを手に入れたばかりの庄司としては、彼の意外な性癖の話はショック以外のなにものでもなかった。
「本当なんですか? だって全然そんな感じがしないし、俺、牧野が長谷川はせがわがくと『琥珀色』の舞台をや 演ってた時から、ずっとファンでっ!」
「琥珀色」とは、今でも演劇好きの間で語り継がれている、知る人ぞ知る名舞台だ。
 今から約八年前、まだ大学生だった長谷川と、すでに役者として名を上げつつあった牧野のふたりが主役となり、ヒロインを巡る三角関係を演じた。
 恋人と別れてからもなお彼女を愛し続け、復縁を求める牧野の演技は狂気じみていて背筋に寒気を覚えるほどだったが、その一方で偽りのない一途なまでの愛情に、舞台を見守る観客たちは誰もがいつしか涙を流した。
恋人を大きな愛で優しく包み込むような長谷川の演技と見事な対照を成していて、その後名優として知られるようになる、ふたりの役者の真価を見せつけられるような舞台だった。
 今思い出しても素晴らしかった舞台の思い出に浸る庄司に、しかし堀内が無情な言葉を叩きつけてくる。
「あ、それそれ、その長谷川が牧野のおホモだち。何でも長谷川がまだ学生のころからの付き合いらしいぜ」
 ――――漫画のように、頭上に岩を落とされたような衝撃があった。
「は、長谷川と? 俺、長谷川の演技も好きだったのに……」
 長年ファンだった俳優ふたりが世を忍ぶ仲だったと聞かされて、庄司はその場で卒倒しそうになった。しかし倒れ込む寸前、ある事実に気づいてなんとか復活した。
「でも、牧野も長谷川も去年結婚したじゃないですか。長谷川なんて嫁さんにしたい女優ナンバー1の葉山はやま綾乃あやのと籍入れて、しばらくはワイドショーでもその話題で持ちきりで」
「……そこなんだよ」
 我が意を得たりとばかりに、堀内がにやりと口端を釣り上げる。そしてもったいぶるようにタバコを取り出すと、わざとゆっくりと火をつけた。喫煙癖のない庄司は、煙の匂いに反射的に眉をひそめる。
 一呼吸置いて改めてこちらに向けられた堀内の瞳には、明らかに面白がるような光が宿っていた。ちょいちょいと人差し指で招かれる。顔を寄せると、潜めた声で囁かれた。
「あれな、偽装だった可能性がある」

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