琥珀色【前編】

 ふうっと、もう何度目になるか分からないため息を、庄司しょうじ義人よしひとはまた繰り返した。
 車のフロントガラス越しに見える街はすっかり夜の闇に染め上げられ、昼間の薄汚れた姿を綺麗にごまかしている。けばけばしい、派手に輝くネオンを物憂げに見やってから、右手の先に摘まんだ名刺をチラッと見やり、もうひとつため息を吐いて、庄司は寄りかかっていたハンドルに突っ伏した。
 気が重かった。どうしようもなく気が重かった。
 濃い紺色の地に銀色のフォントで、店名を英字で印刷しただけの上品な名刺は、庄司が先ほどからいじり続けているために、端が少し痛んでしまっている。いっそこのままこの名刺をバラバラにして捨ててしまえたらどんなにいいことかと思ったが、もしそんなことをしようものなら、苦労してこれを手に入れた上司が怒り狂うのは、眼に見えていた。
(……これは仕事だ。仕事なんだ)
 今日だけでもう何度、この言葉を自分に言い聞かせたことだろうか。
 かねてからの夢を叶えて、大手の出版社に入社したのが二年前のこと。一年目は営業に配属されて書店まわりを繰り返しながら出版界の現状を叩き込まれ、この春の異動で、いよいよ念願の雑誌編集部に配属されることになった。しかし雑誌は雑誌でも、庄司が配属された先は女性週刊誌の編集部だった。
 庄司の本命の配属先は月八〇〇〇部を発行する演劇雑誌の編集部で、毎週二五万部を売り上げる女性誌にいきなり配属が決まったときには戸惑った。正直なところあまり興味も持てない類の雑誌だったが、一度配属された以上は、自分なりに真剣に仕事に取り組んできたつもりだ。それがいったい何の因果で、こんな冗談のような仕事を請け負わねばならなくなったのか。
 少し伸びすぎた髪をぐしゃぐしゃとかき回し、最後にもう一度ため息を吐いて車を降りる。
 学生時代から馴染んだこの新宿の街。しかしこれから向かう一角だけは、庄司も今までほとんど足を踏み入れたことがない。
 名刺をひっくり返し、裏面に印刷された地図を確かめて先へと進みながら、庄司は憂鬱な気分で数時間前の上司とのやり取りを思い起こしていた。

* * *

「おい、庄司。ちょっと来いや」
女性週刊誌、週刊マダム編集部デスクの堀内に呼ばれ、庄司はとりかかっていた伝票の整理を一時中断すると、席を立った。
「なんでしょうか」
「おまえ、今デカイ仕事抱えていないよな?」
 確認するように聞かれたので、庄司は「ええ」と頷いた。ここひと月ほどかかりきりだった、人気アイドルの素行不良を追った記事には、先日ようやく一区切りがついたところだ。
 次の仕事に関しては上からの指示待ちの状況で、それまでに済ませてしまおうと、財布からあふれんばかりに溜まった仕事関係の領収書の山を整理しかけていたところだった。
「今のところはこれと言ったものはありませんが、また何か新しいネタでも入ったんですか?」
「おお。俺が長いこと寝かせていたネタをな、ついに記事にするときが来そうなんだよ。おまえにも一枚噛ませてやるからしっかりやってくれよ。こいつはデカイぜ〜」
 そう言ってほくそえむ堀内の顔を見ていると、胸の中ににわかに真っ黒い不安の雲が立ちこめてきた。
 この中年のデスクはエネルギッシュで後輩の面倒見もそれなりによく、庄司も仕事の上ではいつも頼りにしている。
 しかしたとえば飲み会の席などでどんなに盛り上がろうが、いかに酔いに乱れようが、庄司は彼に自分のプライベートを明かしたりはしない。恋愛話などはもってのほかだ。
 なぜならば女性誌の記者が天職のような堀内は、一般人、芸能人にこだわらず、人様の下半身事情をやけに知りたがる悪癖を持っているからだ。しかもそれを他人に吹聴するのも好きときているのだから、たまらない。
 どんなに下世話なネタでも躊躇なく取り上げ、またそういう記事がよく当たるため、業界内では名物記者として名が知られているほどなのだが、庄司は彼が扱いたがるようなネタが総じて好きではなかった。いや、別に堀内の仕事に限ったことではない。そもそも庄司は恋愛ネタを記事に取り上げるのが殊更に嫌いなのだ。
 どの有名人がどんな恋愛をしていようが、それが誰かの生活に悪影響を与えることはない。なのに自分たちマスコミが面白半分に記事に取り上げ、騒ぎ立てることで、彼らの恋愛が破綻にまで至ることも珍しくない。綺麗ごとだとは思っても、人の気持ちを興味本位でもてあそぶようなことに、庄司はどうしても馴染めないでいた。
 しかしもちろん仕事でそんな感情論が通じるわけがない。心から楽しそうにしている堀内の顔を見ていると嫌な予感ばかりを覚えたが、まさか話を聞く前から嫌ですと断るわけにもいかず、ひょっとしたら本当に興味深いネタを回してくれる可能性もあるかもしれないと、か細い期待をつなぎながら庄司は恐る恐る尋ねてみた。
「それで、一体どんなネタなんですか?」
「おまえ、俳優の牧野まきの秋久あきひさは知っているよな」
(――よりによって、牧野かよ!?)
 庄司は内心で呻いた。告げられた名が、堀内の口から出てきて欲しくない芸能人の最上位に位置する俳優のものだったからだ。
「ええ、もちろん知っていますが、彼が何か……」
「じゃあ、この噂も聞いたことあるだろ。牧野秋久が、男と付き合っていたってやつよ」
 瞬間、頭の中が真っ白になった。

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